改訂新版 世界大百科事典 「寒巌義尹」の意味・わかりやすい解説
寒巌義尹 (かんがんぎいん)
生没年:1217-1300(建保5-正安2)
鎌倉中期の曹洞宗の禅僧。京都北山に生まれ,後鳥羽天皇(一説には順徳天皇)の皇子と伝える。法の嗣承については,道元説,孤雲懐弉(こうんえじよう)説,徹通義介(てつつうぎかい)説など諸説があり明らかでない。1231年(寛喜3)出家して叡山に登り,天台宗の教学を学んだ。41年(仁治2)越前波著寺の懐鑑等とともに山城興聖寺の道元の門に参じ,道元の越前移転にも随行した。43年(寛元1)(一説には1253年),64年(文永1)の2度に及ぶ入宋の経験をもつ。とくに,2度目の渡宋時には,道元の語録を携え,無外義遠,虚堂智愚,退耕徳寧などを歴参し,67年に帰朝した。70年ころ,肥後古保里の素妙尼の請により,筑紫聖福寺から肥後へ移り如来寺を開き,さらに76年(建治2)には益城郡に極楽寺を開いた。つづく83年(弘安6)には,肥後河尻の地頭源(河尻)泰明の外護により大渡(現,熊本市南区野田)に大慈寺を開創した。同寺は88年(正応1)官寺の許可を得,公家武家の祈禱所として繁栄した。義尹の功業としては,荒野開発などをはじめとする大土木工事が注目されるが,とくに,渡舟の沈没により毎年多数の人命が奪われる肥後第一の急流緑川に架橋を試み,河尻大渡の地に,いわゆる大渡橋を竣工させるなどの偉業は,特筆すべきものである。後世この門派を法王派,または寒巌派と呼ぶ。
執筆者:上田 純一
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報