日本歴史地名大系 「河崎庄」の解説 河崎庄かわさきのしよう 福岡県:八女市河崎庄現八女市忠見(ただみ)から黒木(くろぎ)町大淵(おおぶち)・矢部(やべ)村矢部に広がる庄園。永和三年(一三七七)三月日の深堀時久軍忠状(深堀文書/南北朝遺文(九州編)五)によれば、永和二年一月千布(ちふ)(現佐賀県佐賀市)などへの攻撃が落着し、時久は「河崎御陣」に至るまで従軍したという。応永三二年(一四二五)河崎庄大淵村・矢部村のうち五ヵ所が五条宗剛(頼治)から子息頼重と孫の頼経に譲られ(五通の同年六月一二日「宗剛譲状」五条家文書/史料纂集)、文明四年(一四七二)には当庄矢部・大淵両村が頼経の子頼実から長子良豊に譲られている(同年一二月一三日「五条頼実譲状」同上)。 河崎庄かわさきのしよう 岐阜県:本巣郡巣南町河崎庄現真正(しんせい)町温井(ぬくい)から巣南町七崎(ななさき)・居倉(いくら)・森(もり)・唐栗(からくり)・田之上(たのかみ)・宮田(みやでん)にかけて散在したとみられる鷲尾家領庄園。「師守記」貞治元年(一三六二)一一月二九日条によれば、四条宰相鷲尾隆右より「河崎庄内両佃并忠助名」について越訴がなされ、記録所において審議が行われ、当庄は四条隆綱より冷泉局に一期譲りののち、鷲尾家門に譲られるべきとした。 河崎庄かわさきのしよう 神奈川県:川崎市河崎庄現川崎区堀之内(ほりのうち)町を中心に旧川崎宿一帯にあたり、秩父氏一族の河崎基家によって開発されたといわれる。荘名が初めて信頼すべき史料にみえるのは弘長三年(一二六三)二月八日付の勝福寺鐘銘(県史一)で、「武州河崎荘内勝福寺」とあり、大檀那比丘尼千阿と佐々木泰綱の名が記される。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by