北条氏康(読み)ホウジョウウジヤス

デジタル大辞泉 「北条氏康」の意味・読み・例文・類語

ほうじょう‐うじやす〔ホウデウうぢやす〕【北条氏康】

[1515~1571]戦国時代の武将。氏綱の長男。上杉憲政古河公方こがくぼう足利晴氏を破り、武田・今川両氏と結んで関東進攻を図る上杉謙信に対抗し、後北条氏最盛期を招いた。検地の実施や伝馬制度の整備など、領国経営に尽力した。

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精選版 日本国語大辞典 「北条氏康」の意味・読み・例文・類語

ほうじょう‐うじやす【北条氏康】

  1. 戦国時代の武将。氏綱の子。父のあとを継いで勢力拡大をはかり、しばしば今川義元・上杉憲政と戦う。また川越城の戦で八万の大軍をわずか八千の兵の夜襲攻撃によって破り、武名をはせた。後北条氏全盛期基礎をすえた。永正一二~元亀二年(一五一五‐七一

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朝日日本歴史人物事典 「北条氏康」の解説

北条氏康

没年:元亀2.10.3(1571.10.21)
生年:永正12(1515)
戦国時代の武将。相模小田原城主。父は氏綱。母は養珠院宗栄か。通称新九郎。左京大夫。隠居後は相模守,また御本城様などと敬称され,太清軒と号した。天文6(1537)年7月の武蔵河越城攻略のころから家督継承者として政務に関与し,同10年7月の氏綱死没前後に家督を継ぐ。翌11年から12年にかけて,相模,南武蔵,伊豆などで代替わり検地を実施。同14年には駿河の富士川以東の支配を巡って今川義元との紛争が再燃し,不利な形勢下での講和によりこれを失う。しかし翌15年4月の河越城の戦では大勝,扇 谷上杉氏を滅ぼし,関東管領上杉憲政を上野平井城に敗走させた。以後,大石氏,藤田氏など北武蔵の武将らは氏康に服属するようになる。内政面では同19年から弘治1(1555)年にかけて,懸銭や正木(「麦」の意か)棟別銭の創設,段銭の税率改正など税制改革を行い,領国経営の基礎を固めた。天文20年,憲政を平井城から白井城へと追い詰め,翌21年1月にはついに越後に走らせた。また同年12月,古河公方足利晴氏に対し,家督をその子義氏(母は氏綱の娘)に譲らせている。 その後,富士川以東の地を奪回するため駿河に侵攻する一方で,武田・今川両氏と相甲駿(相模,甲斐,駿河)三国同盟を結んだ。23年11月,晴氏・藤氏父子を捕らえて相模波多野(秦野市)に幽閉し,義氏の家督を安堵させる。永禄2(1559)年2月には,主として家臣らへの普請役賦課の状況を調査させ,基本台帳『小田原衆所領役帳』を作成。同年12月に家督を子氏政に譲り隠居したとみられる。この代替わりと前後して北条氏の支城制はほぼ固まった。隠居後は氏政の後見として第一線を退いたが,12年閏5月に成立した相越(相模,越後)同盟は氏康の主導によるものであった。中風発病後1年余りで死去。税制改革をはじめ諸制度の整備を成し遂げ,領国の支配体制を確立した武将といえよう。

(佐脇栄智)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「北条氏康」の意味・わかりやすい解説

北条氏康
ほうじょううじやす
(1515―1571)

関東の戦国大名、後北条(ほうじょう)氏第3代。氏綱(うじつな)の子。1541年(天文10)家督を継ぎ翌年から相模(さがみ)、武蔵(むさし)の広い範囲で代替り検地を行った。52年上杉憲政(のりまさ)を越後(えちご)に追い、自分の甥(おい)の足利義氏(あしかがよしうじ)を古河公方(こがくぼう)にたて、前公方晴氏(はるうじ)父子を幽閉した。さらに河越(かわごえ)、松山(埼玉県川越市、東松山市)周辺に検地をし、滝山(たきやま)(東京都八王子市)、鉢形(はちがた)(埼玉県大里郡寄居(よりい)町)の支城に子の氏照(うじてる)、氏邦(うじくに)を入れた。そのほか、税制改革、軍役を定めた「小田原衆所領役帳」を作成するなど、領国経営の安定を図った。59年(永禄2)には氏政(うじまさ)に家督を譲ってこれを後見し、武田・今川氏との同盟をバックに上杉輝虎(てるとら)(謙信(けんしん))の進攻を退け、勢力を拡大した。晩年、駿河(するが)に進出した武田信玄(しんげん)を討つため、上杉氏との同盟締結に全力を傾け69年締結したが、死にあたっては、これを破棄して、ふたたび武田氏と結ぶよう遺言したといわれる。

[池上裕子]

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改訂新版 世界大百科事典 「北条氏康」の意味・わかりやすい解説

北条氏康 (ほうじょううじやす)
生没年:1515-71(永正12-元亀2)

戦国時代の武将。後北条氏第3代。氏綱の子。左京大夫,相模守。1541年(天文10)に家督を継ぎ,その翌年と翌々年にかけて相模,南武蔵,伊豆等で代替り検地を実施し,50年には税制を改革して領国経営の基礎を固めた。この前の45年には駿河の富士川以東の地域をめぐり今川義元と争い,遂に駿河を失う。しかし翌46年,川越の夜討といわれる戦いに大勝し(河越城の戦),扇谷上杉氏を滅亡させた。さらに52年には山内上杉憲政を上野から越後に追い,54年駿河に攻め入ったが,結局,相甲駿三国同盟を結ぶ。またこの年,古河公方足利晴氏らを相模の秦野に幽閉したが,翌55年(弘治1)北武蔵で検地を実施するとともに税制の整備も行った。59年(永禄2)の初めに《小田原衆所領役帳》を作成させたが,その年末には家督を氏政に譲り,後見となる。69年に相越同盟を成立させ,71年10月3日没。法名は大聖寺殿東陽宗岱。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「北条氏康」の意味・わかりやすい解説

北条氏康
ほうじょううじやす

[生]永正12(1515).小田原
[没]元亀2(1571).10.3. 小田原
戦国時代の大名。後北条氏3代目。氏綱の嫡子。名は新九郎。法号は大聖寺東陽宗岱。左京大夫,従五位下。室は今川氏親の娘。天文 10 (1541) 年父の跡を継いで小田原城に住し,同 14年駿河に出陣,今川義元,上杉憲政らと戦い,翌 15年には武蔵に出撃して,足利晴氏,上杉朝定,同憲政らの連合軍を破り松山城を攻略。同 20年晴氏,両上杉の軍を武蔵河越に破り,同 23年武田信玄,今川義元と同盟を結び,古河公方足利晴氏を攻めた。永禄4 (61) 年には,小田原城を攻めた上杉謙信を戦わずして退かせ,後北条氏の全盛期を築いた。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「北条氏康」の解説

北条氏康
ほうじょううじやす

1515~71.10.3

戦国期の武将。相模国小田原城(現,神奈川県小田原市)城主。戦国大名後北条氏3代。後北条氏は氏康の代に戦国大名として確立。1541年(天文10)家督をつぐ。46年河越城の戦の勝利などによって上杉氏を圧倒,関東における後北条氏の優位を不動にした。54年今川・武田両氏と三者同盟を結ぶ(善徳寺の会盟)。内政面では租税制度・貨幣制度・伝馬制度などを整備。永禄初年家督を子氏政に譲り後見となるが,同時に支城制度を固め,氏政の弟らを領国の各所に配置。61年(永禄4)上杉謙信に小田原城を攻められたが,武田信玄が南進に転じたため,69年には謙信と結んだ(越相同盟)。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「北条氏康」の解説

北条氏康 ほうじょう-うじやす

1515-1571 戦国時代の武将。
永正(えいしょう)12年生まれ。北条氏綱の長男。天文(てんぶん)10年,小田原城主北条氏3代となる。15年扇谷(おうぎがやつ)上杉氏を武蔵(むさし)河越(かわごえ)(埼玉県)にやぶり,23年今川義元,武田信玄と三国同盟をむすぶ。永禄(えいろく)4年上杉謙信の進攻をしりぞけ,伊豆(いず)・相模(さがみ)・武蔵・上野(こうずけ)を領有,検地の実施,軍役の制定,税制の改革など領国支配の基礎をかためた。元亀(げんき)2年10月3日死去。57歳。通称は新九郎。
【格言など】下の功を盗まざれ(長男氏政への教訓)

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百科事典マイペディア 「北条氏康」の意味・わかりやすい解説

北条氏康【ほうじょううじやす】

戦国大名。氏綱〔1487-1541〕の子。1546年扇谷(おうぎがやつ)・山内(やまのうち)上杉氏の大軍を武蔵(むさし)川越に破り,1552年上杉憲政を越後(えちご)に追い,1561年小田原に侵入した上杉謙信を撃退。民政面でも敏腕を振るい,伊豆(いず)・相模(さがみ)・武蔵・上野(こうずけ)4ヵ国を支配し,北条氏の全盛を築いた。
→関連項目御館の乱厩橋

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旺文社日本史事典 三訂版 「北条氏康」の解説

北条氏康
ほうじょううじやす

1515〜71
戦国時代の武将
氏綱の子。1551年武蔵(埼玉県)河越で扇谷 (おうぎがやつ) ・山内両上杉氏・古河 (こが) 公方足利晴氏の大軍を撃破し(河越の戦い),武田信玄・今川義元らとしばしば交戦。のち武田・今川両氏と和を結び,関東南部を平定し,後北条氏最盛期を現出した。また和歌を好み,足利学校の復興を援助した。

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世界大百科事典(旧版)内の北条氏康の言及

【後北条氏】より

…伊勢宗瑞(俗称北条早雲)を始祖とし,氏綱,氏康,氏政,氏直と5代にわたり相模の小田原城を本拠として関東に雄飛した戦国大名(図)。早雲はその出自など多くがなぞにつつまれた人物であるが,1476年(文明8)に義忠没後の今川家内紛の調停役として歴史の舞台に登場した。やがて駿河の興国寺城主となり,91年(延徳3)には足利茶々丸を討って伊豆を平定し韮山城に移る。95年(明応4)小田原城に大森藤頼を攻めてこれを奪い,関東進出の第一歩をしるした。…

※「北条氏康」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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