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河野通信 こうの みちのぶ

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

河野通信 こうの-みちのぶ

1156-1223 平安後期-鎌倉時代の武将。
保元(ほうげん)元年生まれ。河野通清(みちきよ)の子。治承(じしょう)4年(1180)源頼朝に呼応し,父とともに伊予(いよ)(愛媛県)高縄山城で挙兵。敗死した父のあとをうけ伊予内の平家与党を討ち,壇ノ浦の戦いでは兵船をひきい源義経軍にくわわる。承久(じょうきゅう)の乱(1221)では後鳥羽(ごとば)上皇方について敗れ,陸奥(むつ)平泉(岩手県)に流された。貞応(じょうおう)2年5月19日死去。68歳。通称は四郎。

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書籍版「講談社 日本人名大辞典」をベースに、項目の追加・修正を加えたデジタルコンテンツです。この内容は2015年9月に更新作業を行った時点での情報です。時間の経過に伴い内容が異なっている場合がございます。

朝日日本歴史人物事典の解説

河野通信

没年:貞応2.5.19(1223.6.19)
生年:保元1(1156)
鎌倉前期の武士。通清の子。伊予国(愛媛県)の在庁として有力な武士団を構成した。源頼朝をはじめとする反平家勢力が挙兵した治承・寿永内乱の際は,いちはやく源氏方に立ち,その功績によって鎌倉殿源頼朝に直接臣従を許され,所領を安堵された。文治5(1189)年の奥州合戦に従軍,正治1(1199)年の梶原景時排斥に参加するなど鎌倉に常駐。その奉公を賞されて,建仁3(1203)年伊予への帰国に際し,守護に属さず国内の近親・郎従を統率する権限を与えられている。北条時政の婿となり,幕府の権威を背景として伊予国内に勢力を拡大したが,承久の乱で京方に立ったため奥州平泉に流され,配所で没した。時宗の開祖一遍は彼の孫に当たり,弘安3(1280)年奥州へ通信の墳墓を訪ねている。<参考文献>山内譲「伊予国における武士団の成立と展開」(『日本歴史』379号)

(野口実)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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世界大百科事典内の河野通信の言及

【河野氏】より

…中世の伊予国(愛媛県)の豪族。古代の越智(おち)氏の流れをくむと伝えられる。風早郡河野郷(現,北条市)を根拠地とする。源平合戦時に,通清・通信父子が源氏方にくみして勢力をのばし,戦後は御家人の地位を得て伊予国最大の武士団に成長した。その支配領域は,風早郡を中心にして中東予に及んだ。承久の乱(1221)では通信が京方に味方し,所領所職の大半を失ったが,その子通久が鎌倉方についたのでかろうじて命脈を保った。…

※「河野通信」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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