朝日日本歴史人物事典 「河野通信」の解説
河野通信
生年:保元1(1156)
鎌倉前期の武士。通清の子。伊予国(愛媛県)の在庁として有力な武士団を構成した。源頼朝をはじめとする反平家勢力が挙兵した治承・寿永内乱の際は,いちはやく源氏方に立ち,その功績によって鎌倉殿源頼朝に直接臣従を許され,所領を安堵された。文治5(1189)年の奥州合戦に従軍,正治1(1199)年の梶原景時排斥に参加するなど鎌倉に常駐。その奉公を賞されて,建仁3(1203)年伊予への帰国に際し,守護に属さず国内の近親・郎従を統率する権限を与えられている。北条時政の婿となり,幕府の権威を背景として伊予国内に勢力を拡大したが,承久の乱で京方に立ったため奥州平泉に流され,配所で没した。時宗の開祖一遍は彼の孫に当たり,弘安3(1280)年奥州へ通信の墳墓を訪ねている。<参考文献>山内譲「伊予国における武士団の成立と展開」(『日本歴史』379号)
(野口実)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報