河間村(読み)こうまむら

日本歴史地名大系 「河間村」の解説

河間村
こうまむら

[現在地名]芦原町河間

竹田たけだ川南方の自然堤防上にあり、玉木たまき村の南に位置する。正保の越前国絵図によれば、金津かなづ宿(現金津町)三国みくに(現三国町)を結ぶ交通路に沿っていた。天正一三年(一五八五)閏八月二二日付多賀源介宛堀秀政知行安堵状(多賀家文書)中に「新郷内高間村」があり、八三六・九二七石と記す。正保郷帳によれば田方四四五石余・畠方一三三石余。貞享三年(一六八六)福井藩領から幕府領となったが、文政元年(一八一八)から同三年までは福井藩領に戻っている。

当村十郷じゆうごう用水本庄江ほんじようえ(西江)組合に属し、寛永一五年(一六三八)の十郷横落長江堀間数割(大連家秘簿)では、横落堰堤九〇〇間のうち二三間三尺の江堀を分担している。

河間村
がまむら

[現在地名]大垣市河間町

大垣輪中の北西部、杭瀬くいせ川左岸に位置し、南西笠木かさぎ村。地名は地下水の自噴する所を「ガマ」と称したことに由来するという(新修大垣市史)。文安二年(一四四五)のものと推測される石包名未進注進状(東大寺図書館蔵)には「中河カマ二郎ヱモン」の名がみえる。天正一一年(一五八三)七月日の稲葉一鉄初尾奉納目録写(稲葉家譜)に「がまノ内笠毛方」とみえ、笠毛かさけ方は現笠木町の地に比定される。江戸時代を通じて大垣藩領。慶長郷帳に「かま村」とみえ、村高四一一石余。正保郷帳では田高三九七石・畑高五四石余。貞享二年(一六八五)の大垣領村々高帳では高五〇一石余。

河間村
こうまむら

[現在地名]中之口村河間

西は福島ふくじま村、東は三門新みつかどしん村に接する。近世初頭、信州長沼出の女性が三条城将堀雅楽頭(雅楽助直清か)寵愛を受けて男子を出産、堀氏転封の際帰農して当村庄屋長沼氏の祖となり、先に来村した如沢氏とともに開発を進めたといわれる。当初幕府領、慶安二年(一六四九)村上藩領となり、明暦三年(一六五七)総検地を受け、貞享元年(一六八四)の郷村高辻帳に高四七二石八斗余とある。長沼家三代勘之丞の頃河間組大庄屋に任ぜられたが、のち釣寄つりよせ(現月潟村)曾山氏が継承して釣寄組に替わった。元禄郷帳は福島村枝郷として同高。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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