油良村(読み)ゆらむら

日本歴史地名大系 「油良村」の解説

油良村
ゆらむら

[現在地名]香住町油良

七日市なぬかいち村の南、矢田やだ川の左岸に位置し、同川対岸東方は香住村近世の郷村帳類では本村と出作地の二筆で高付される場合が多かった。弘治三年(一五五七)の「但馬国にしかた日記」には「ゆら村」とあり、地内には糀屋二良大夫殿などが住していた。

本村は慶長二年(一五九七)豊岡城主杉原長房(のち豊岡藩主)領、正保元年(一六四四)幕府領、寛文八年(一六六八)には旗本京極高門領となる。高門は従来丹後国加佐かさ郡のうちで高二千石を領していたが、宗家の兄京極高盛が丹後田辺藩主から豊岡藩主に転じた際、高盛から分知をうけるかたちで養父やぶ郡・美含みくみ郡に所領を移され、当村などを領有することとなった。


油良村
ゆらむら

[現在地名]橘町大字油良

屋代やしろ島の内浦に面し、北西土井どい村、南西安下庄あげのしよう、東は西方にしがた(現東和町)に接する。北東海上にわが島を望む小村で、丘陵地が大半を占める。

油良の名は「吾妻鏡」文治三年(一一八七)四月二三日条に「由良」とみえるのが早い。

慶長一五年(一六一〇)検地帳に「油良村」とあり、田面積一七町九反余で高二〇九石九斗余、畠面積九町七反余で高三八石六斗余、総石高二七四石三斗であった。「注進案」による総田畠面積は三八町余で総石高は四七一石六斗となっており、開作による増加が著しい。うち三一〇石二斗余りは萩藩船手組沓屋市之助の知行所分であった。当村の御立山は二ヵ所を数える。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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