但馬国(兵庫県)出石(いずし)藩仙石氏の御家騒動。仙石氏の財政窮乏は19世紀に入って深刻化し,その立直しをめぐり大老(家老)の家筋である仙石式部家と主計(かずえ)家の対立が生じた。1824年(文政7)藩主政美(まさみつ)が死に,嗣子がないため江戸で跡目の相談があり,式部家の仙石左京久寿は長男を伴って出府した。このことがお家乗取りの陰謀と疑われ,左京は主計家仙石造酒助(みきのすけ)久恒らによって大老の座を追われた。その後造酒助は自派の内紛で巻き返され左京が返り咲いたが,騒動を知った幕府は,35年(天保6)寺社奉行脇坂安董(やすただ)の裁きで左京を逆臣として獄門に処し,藩の知行を半知とした。事件は左京の陰謀に発する御家騒動として,芝居・講談等に物語化されて演じられてきた。しかし近時それは,財政改革をめぐる改革派と守旧派の主導権争いであり,左京の政策はむしろ主家に貢献する改革派路線として見直されてきている。
執筆者:八木 哲浩
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天保(てんぽう)年間(1830~44)に但馬(たじま)(兵庫県)出石(いずし)藩5万8000石余の外様(とざま)大名仙石家に起きた御家騒動。1824年(文政7)藩主政美(まさよし)が急死したが嗣子(しし)がなかったので、弟道之助(5歳、久利)が継いだ。仙石家の分家筋で1500石を知行(ちぎょう)して権勢のあった家老上席の仙石左京(さきょう)は、実子小太郎を擁立して道之助にかえようとした。小太郎の妻に老中松平康任(やすとう)の弟主税(ちから)の娘を迎えて康任に近づき、また政美の父の久道に働きかけて重臣を退け処罰した。このため反対派の河野瀬兵衛が左京の動きを聞き、同族の仙石長之助が幕府に出訴したことから表面化した。寺社奉行(ぶぎょう)脇坂安董(わきざかやすしげ)の取調べの結果、左京らの陰謀が明白となり、35年(天保6)断罪、出石藩の石高(こくだか)は3万石余に減封された。
[小林 茂]
『『兵庫県史 5』(1980・兵庫県)』
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出典 日外アソシエーツ「歌舞伎・浄瑠璃外題よみかた辞典」歌舞伎・浄瑠璃外題よみかた辞典について 情報
…18世紀後期,養蚕,絹織物,陶磁器(出石焼)などの国産振興をはかったが,文政期(1818‐30)城下の大火と相次ぐ天災で,藩財政は極度に窮乏した。その打開をめぐる対立の果てに,いわゆる仙石騒動が起きる。この騒動は大老上席仙石左京の主家乗っ取りの陰謀事件として芝居・講談などに物語化され上演されてきたが,実は財政再建をめぐる改革派と守旧派の対立抗争であった。…
…父は豊後国日田の代官所の属吏だったが,聖謨は小普請組川路光房の養子となって川路家を継ぎ,勘定所の筆算吟味に合格して勘定方勤務となる。役人の階段を一つずつ上るうち1835年(天保6)の仙石騒動断罪で手腕を発揮し,勘定吟味役に抜擢された。次いで佐渡奉行,小普請奉行,奈良奉行,大坂町奉行などを経て,52年(嘉永5)勘定奉行に昇進する。…
…(3)掛奉行1人,原則として町奉行に目付1人が立ち会い,奉行所で御目見以下等を裁判した。1835年(天保6)の仙石騒動を裁いた四手掛という手続は,事情により三奉行の1人を欠く場合で,例外的なものである。武士に関する手続では,揚座敷,揚屋(あがりや)に勾留し,御目見以上で500石以上の武士は大名,旗本に預ける。…
…出石藩ではこの専売政策をはじめとする財政立直し策をめぐって,24年重臣間の対立が表面化した。藩主の継嗣問題を契機として守旧派・改革派の対立が仙石騒動と呼ばれる御家騒動に発展したのである。これは,幕府の知るところとなって裁かれ,筆頭家老改革派の仙石左京の獄門,即日処刑をもって決着した。…
※「仙石騒動」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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