県の南東部に位置し、北アルプス(飛騨山脈)の北部にあたる。
富山平野の東に屏風を立てたようにして重畳と連なる大山脈の総称がタチヤマであった。後世タテヤマとなったが、「万葉集」はじめ古い文献はすべてタチヤマである。タテヤマのかたちで仮名書きされた確実な例は室町時代からである。中世以降、音読してリュウサンともよばれた。天文一七年(一五四八)の運歩色葉集(静嘉堂文庫)では「り」の項に立山を載せる。慶長年間(一五九六―一六一五)加賀藩主前田利長も「りう山」と書き、利長室玉泉院の侍女の奉書にも「りうさん」とある。近代に入り、ウォルター・ウェストンの「日本アルプス登山と探検」でも立山下温泉をリュウザンジタと記している。しかしリュウサンは一般化せず、多くタテヤマとよんできた。タチヤマは太刀山の意というのが通俗的解釈であるが、むしろ、そびえ立ちたる山、切立ちたる山の意で、これに神の顕現を意味するタツの意も最初から加わっていたのであろう。太刀のイメージが加わるのは後世と考えられる。ほかに入山禁止の断ち山、神の宿る館山などの説がある。
立山と人間生活の関係を示す最古の史料は立山町
立山が文献に表れた最初のものは「万葉集」である。天平一八年(七四六)秋、越中守となって赴任した大伴家持は、天を突いてそびえ立つ立山連峰に感動した。国府(現高岡市)からその壮観を望んだ家持は、翌一九年四月に「立山賦」(巻一七)長歌一首・短歌二首を歌った。
長崎市中の北東に接する。江戸時代は
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
富山県南東部,立山町東部にあり,北アルプス北部を占める。奈良時代,越中の国司大伴家持に詠われた〈たちやま〉(《万葉集》)は,劔岳を含めた連峰の総称である。一般に立山というときは,最高峰の大汝(おおなんじ)山(3015m)と雄山(おやま)(2992m)を指すが,これに南側の浄土山(2831m)と北側の別山(べつさん)(2880m)とを加えた立山三山を指す場合もある。立山はいずれも古期の花コウセン緑岩と飛驒変成岩で構成されている。雄山北西斜面の山崎カール(天)や東斜面の御前谷,大汝,内蔵ノ助谷,真砂沢などのカール,南方の御山谷氷食谷など,氷河地形も多い。西側には,室堂平,天狗平,弥陀ヶ原といった溶岩台地が広がり,これらの緩斜面の南側に位置する国見岳(2621m)や天狗山(2521m)は立山旧火山のカルデラ壁である。雄山山頂には雄山神社峰本社がある。東側は黒部峡谷を隔てて後立山連峰へと続く。立山は平安時代から修験道行者の手で開かれ,室町時代には広く知られるようになった。江戸時代になると,山麓の芦峅寺(あしくらじ)を中心に神仏混淆(こんこう)の宗教的色彩が強まり,死者に会える山として諸国からの登山者を集めた。1972年立山黒部アルペンルート(全長約86km)が完成。富山市から出発して電車やバス,空中ケーブル,ロープウェー,地下ケーブルなどを乗り継ぎながら,地獄谷やみくりが池など立山の火山活動のあとを示す名所のある室堂平から黒部ダムを経て長野県大町市に至る観光ルートが開かれた。
執筆者:深井 三郎
立山は白山とともに北陸を代表する修験道の山である。立山の開山伝説によれば,越中国守の佐伯有若の嫡男有頼が,父の白鷹をかりて鷹狩りに山に入り,山中で熊を射ると,その熊が阿弥陀如来に変じた。このため有頼は受戒し,慈興と改名したという。立山信仰の中核は,立山を立山権現の本地仏阿弥陀如来の極楽浄土とみる信仰と,地獄谷を中心とする立山地獄の信仰であった。とりわけ立山地獄は《法華験記》《今昔物語集》に紹介されているように,古くから世に知られており,《法華験記》には〈かの山に地獄の原ありて,遥に広き山谷の中に,百千の出湯あり,(中略)昔より伝へ言はく,日本国の人,罪を造れば,多く堕ちて立山の地獄にあり〉と記載されている。こうした立山地獄の流布には,噴煙絶えぬ荒涼とした景観はもとより,修験,聖(ひじり),比丘尼(びくに)など立山に依拠した宗教者の活動に負うところが大きい。なかでも立山から流れる常願寺川流域の岩峅寺(いわくらじ)(立山外宮)と芦峅寺(立山中宮)とがその拠点となってきた。近世には岩峅寺が20余坊,芦峅寺が姥(うば)堂,閻魔(えんま)堂を中心として30余坊の宗教集落を形成し,主として前者は出開帳,後者は勧進という形態をとって信仰の流布につとめてきた。
芦峅寺の場合は全国的な規模で師檀関係を結び,冬季の檀那回りには,立山権現の護符のほか,立山リンドウ(胃腸薬),湯の草,熊の胆,山人蔘(やまにんじん)など各種の薬を土産としており,それが富山の薬売りの源流をなしたこと,また立山曼荼羅(まんだら)を持ち歩き絵解きを行い,立山地獄のようすや立山権現の霊験を説き聞かせている点は注目される。芦峅系の立山曼荼羅に強調されている姥堂,閻魔堂,そこで行われた布橋灌頂(ぬのはしかんぢよう)の行事は特筆されるべきものである。明治期の神仏分離まで,姥堂には本尊としての姥三尊のほか,全国六十六州を模して66体の姥像が安置され,姥堂は姥石,美女杉,禿(かむろ)杉などといった女人禁制の習俗を示す伝説とは対照的に,女人堂の性格を有し,血の池地獄と対応させながら女人救済信仰が説かれてきた。また布橋灌頂は擬死再生,死後の極楽往生を約束する儀礼で,秋の彼岸の中日に閻魔堂と姥堂との間の姥堂谷(御姥ヶ谷)に架けられた橋(布橋,天の浮橋)に白布を敷いて行われ,その白布は行事の後に経帷子(きようかたびら)にして信者に頒布されてきた。
執筆者:宮本 袈裟雄
富山県東部,中新川郡の町。人口2万7466(2010)。町域の大半は常願寺川中・上流域と黒部川上流域にあたる飛驒山脈の山岳地域で,立山,劔岳,鹿島槍ヶ岳など3000m級の高山がそびえる。北西部の常願寺川東岸の開析扇状地は古くは松本開(まつもとびらき)と呼ばれ,江戸時代末期に開拓が進み,散居制集落が見られた。富山地方鉄道が通じる中心集落の五百石(ごひやつこく)は松本開開拓地の中心として開けた市場町で,第2次大戦前から製紙や繊維などの工場が進出し,1960年代中ごろには非鉄金属の工場が立地した。常願寺川沿いにある芦峅寺(あしくらじ),岩峅寺は,立山信仰登山の根拠地で,現在も山小屋経営者,山岳ガイドなどが多い。丘陵部では越中瀬戸焼の瓦製造が行われる。黒部川,常願寺川上流には黒部ダムをはじめ大規模なダム,水力発電所が多い。立山黒部アルペンルートが開設されてから,日本でも有数の山岳観光地になっている。北陸自動車道立山インターチェンジがある。
執筆者:千葉 立也
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
富山県南東部、北アルプス北部の山。立山本峰は雄山(おやま)(3003メートル)、大汝山(おおなんじやま)(3015メートル)、富士ノ折立(ふじのおりたて)からなり、雄山神社本社のある雄山が立山の中心となっている。立山連峰は立山を中心に北は剱(つるぎ)岳・毛勝(けかち)山から南は薬師岳までの山々をいい、大伴家持(おおとものやかもち)が『万葉集』に詠んだ「たちやま」は立山連峰をさしている。また雄山、別山(べっさん)、浄土山を立山三山とよび、立山直下の溶岩台地をも含めた広範囲な地域を立山とよぶこともある。
雄山、大汝山、浄土山は古期花崗閃緑(かこうせんりょく)岩と、一部はより古い飛騨変成岩で構成されている。雄山の北西直下には国指定天然記念物の山崎圏谷(やまさきけんこく)(山崎カール)があり、東斜面直下に御前谷圏谷がある。このほか、真砂(まさご)沢、内蔵助(くらのすけ)谷などにもカール地形がみられる。広大な下部溶岩台地の弥陀ヶ原(みだがはら)は浄土山南西にあった古立山火山の第二活動期に形成されたもので、天狗平(てんぐだいら)や室堂平(むろどうだいら)はカルデラ壁に天狗山や国見岳、室堂山が形成された第三期の活動期に形成された溶岩台地である。五色ヶ原も古立山火山による溶岩台地である。地獄谷やミクリガ池はその後の余勢活動による爆裂火口である。
立山は伝承では奈良時代の佐伯有頼によって開山されたという。平安時代から真言(しんごん)、天台などの修験(しゅげん)者の道場となり、山麓(さんろく)の芦峅(あしくら)寺、岩峅(いわくら)寺の人々は南北朝から室町時代にかけては越中(えっちゅう)守護と結ぶなど、立山衆徒としてあなどれない勢力をもった。江戸時代には芦峅寺一山33坊5社人の御師(おし)によって全国に登拝を勧進し、登山者の多いときは年6000人にも達したといい、富士山、白山(はくさん)とともに日本三名山の一つとしてあがめられた。明治の廃仏棄釈(きしゃく)で信仰登山は衰えたが、立山の各地に当時の信仰遺物が残っている。1971年(昭和46)立山黒部アルペンルートの完成で、立山は観光の山に急変した。反面、登山者は少なくなり、また自然破壊が懸念されている。立山には特別天然記念物のライチョウ、カモシカが生息し、高山植物にはタテヤマキンバイ、タテヤマウツボグサなど「立山」の名のついたものも多い。
[深井三郎]
『高瀬重雄著『立山信仰の歴史と文化』(1981・名著出版)』▽『富山県ナチュラリスト協会編『立山道を歩く 続――室堂平・雄山・黒部平』(2002・北日本新聞社)』
富山県南東部、中新川郡(なかにいかわ)の町。1954年(昭和29)雄山(おやま)町と上段(うわだん)、東谷、釜ヶ淵(かまがふち)、立山、利田(りた)の5村が合併して成立。同年新川村を編入。立山連峰の西麓(せいろく)、常願寺川(じょうがんじがわ)右岸を占める。中心地区の五百石(ごひゃっこく)は江戸時代には松本開(びらき)といい、高野原の開拓が進むにつれ市場町として発達した。北陸自動車道の立山インターチェンジがあり、製紙、金属、機業などの工場が立地する。芦峅寺(あしくらじ)、岩峅寺(いわくらじ)集落は中世から立山信仰を背景に発展し、とくに芦峅寺は江戸時代には33坊5社人の宿坊があり、立山登拝を全国に勧進、登山者を集めて栄えた。現在も山小屋経営者が多い。雄山神社は立山頂上に峰の本社、芦峅寺に中宮、岩峅寺に前立社壇(本殿は国の重要文化財)が置かれる。芦峅寺の立山風土記(ふどき)の丘には立山信仰用具(国の重要有形民俗文化財)を保管する富山県立山博物館や豪農の嶋(しま)家住宅(国の重要文化財)などが配置される。千寿ヶ原(せんじゅがはら)(立山駅)は富山地方鉄道立山線の終点にあたり、ここから長野県大町市へ至る立山黒部アルペンルートの主要部分を占める。町域南東部は中部山岳国立公園域で、立山連峰のほか、黒部峡谷の下廊下(しものろうか)、黒部ダム、地獄谷温泉、称名滝(しょうみょうだき)などを町域に含む。立山の山崎圏谷(やまさきけんこく)は国指定の天然記念物。面積307.29平方キロメートル(一部境界未定)、人口2万4792(2020)。
[深井三郎]
『『立山町史』全3巻(1977~1984・立山町)』▽『高瀬重雄著『立山信仰の歴史と文化』(1981・名著出版)』
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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