仲哀天皇の妃で記紀の新羅遠征説話の主人公,また応神天皇の母とされる。別名,気長足姫(おきながたらしひめ)尊(記では息長帯比売命)。
熊襲(くまそ)を撃つため筑紫に赴いた仲哀天皇は,海のかなたの宝の国を授けようという神託を得る。この神言は武内宿禰(たけうちのすくね)が請い,神がかりした神功皇后を通じて告げられた。その宝の国とは先進文明に輝く朝鮮半島諸国のことであったが,これを信じなかった仲哀天皇は急死する。再度皇后に神が憑(つ)き,こんどは胎中の子にそれを授けようと託宣する。憑いた神は住吉大神(すみのえのおおみかみ)であった。神言に従って神功皇后はみごもったまま新羅を攻める。神助を得て船は一挙に新羅に至り,国王は恐懼(きようく)して服従を誓った。帰国後九州で生まれた〈御子〉とともに大和に帰還し,〈御子〉の異母兄弟で謀叛を謀った忍熊王(おしくまのみこ)を滅ぼす。こののち皇子は武内宿禰にともなわれて角鹿(つぬが)でみそぎをし名を変える。のちの応神天皇である。成人して帰った子を,神功は〈御祖(みおや)〉として待ち迎え祝福する。神功皇后は,以上の話の前半では巫女的存在,後半では〈御祖〉という二面の造型を与えられている。
前半はかつて〈神功皇后三韓征伐〉などと喧伝された話だが,よくよむと胎中の応神を主役とした話だといえる。瓊瓊杵(ににぎ)尊が天照大神(あまてらすおおかみ)から葦原中国(あしはらのなかつくに)の統治権を授かったのと同様に,住吉大神から応神が母の胎内にいながら先進文明国朝鮮の統治権を授かった話とよめるのである。この応神の代から文明時代は始まると《古事記》は語る。皇子が試練を経て成人するという後半の話にはあきらかに成年式儀礼の投射がみられ,前半を上のようによめば,以上の話は文明時代を開いた初代王誕生の物語として前後半を統一的によむことができる。かかる初代王の誕生に神功皇后は欠かせない存在であった。
新羅出兵の物語は,どの程度にせよ大嘗祭の一環である八十島祭(やそしままつり)の投射をうけており,このことが神功皇后の造型と関係する。八十島祭とは,新天皇即位の翌年,難波津の浜で女官らが天皇の御魂代(みたましろ)なる衣服に,統治すべき島々の霊を付着させて健やかな成長を願う哺育の儀礼であり,祭神には住吉大神も含まれていた。朝鮮問題が重要になったとき,この儀礼を核として,航海守護神である住吉大神が海の果ての宝の国を授けるという神話ができたと思われる。八十島祭には生島御巫(いくしまのみかんなぎ)なる巫女,また天皇の乳母であった女官が参与した。神の子を養育するのは神に仕える巫女的な女性の役目であった。儀礼でその役割を分掌した御巫や乳母の投射をうけて,説話における神功像がつくられたのであろう。
新羅遠征物語において神功皇后は,主役と見まがうほどにその活躍が著しい。歴史以前のものであった巫女の霊能の助けを借りて文明時代が開かれたことは皮肉のようだが,こういう神話を創出せねばならぬほどに,対朝鮮外交問題は王権にとって困難な課題であったということだろう。
《日本書紀》は,神功皇后摂政紀1巻をもうけており,《風土記》などでは神功は天皇と呼ばれるなど,即位はしなかったが天皇に準ずる扱いをうけていたことがわかる。しかし国家成立史以前に属する邪馬台国の卑弥呼は別として,巫女的霊能を疎外しつつ形成されていった古代国家において,巫女的霊能を発揮して政治的実権を握った女帝的人物が存在したとは考えられない。また,7世紀後半期に在位した斉明女帝をモデルとして神功像がつくられたとする説がある。斉明が新羅出兵を企てみずから九州へ出陣したただ一人の天皇だからである。しかしこのころの女帝は実権なき単なる権威のシンボルであった公算が大であり,それをモデルとして神功像がつくられたとは考えにくい。実在の巫女王卑弥呼に始まり,7世紀から8世紀中葉にかけて女帝相次いだ時代に至る女帝史の中にいったん神功皇后を位置づけてみる必要はあろう。しかし女帝ととらえるにしろ,これはあくまでも儀礼上の人物にもとづく説話像である。神功皇后は王権の危機的状況を克服すべく創出された神話において,過去のものとなった巫女的霊能を大いに発揮した,偉大な虚像としての女帝であったといえよう。
→ヒメ・ヒコ制
執筆者:倉塚 曄子
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記紀や『風土記(ふどき)』などにみえる伝承上の人物。『日本書紀』によると、仲哀(ちゅうあい)天皇の皇后で、名を気長足姫尊(息長足姫命)(おきながたらしひめのみこと)という。父は開化(かいか)天皇の曽孫(そうそん)、気長宿禰王(おきながのすくねのおおきみ)、母は葛城高顙媛(かずらきのたかぬかひめ)。『古事記』では、父は開化天皇の玄孫で、母は新羅(しらぎ)国の王子天之日矛(あめのひぼこ)の5世の孫にあたるという。仲哀天皇が熊襲(くまそ)を討つため筑紫(つくし)の橿日宮(かしひのみや)(香椎宮(かしいぐう)。福岡市東区香椎町に所在)にきたとき、天照大神(あまてらすおおみかみ)と住吉(すみよし)三神が皇后にのりうつって託宣を下したが、仲哀はこれを信じなかったために急死した。そこで神功は、臨月であったにもかかわらず新羅を討ち、帰国後、筑紫の宇美(うみ)で後の応神(おうじん)天皇を出産。さらに大和(やまと)に帰還して麛坂(かごさか)・忍熊(おしくま)2王の反乱を鎮定し、応神が即位するまで69年間も政治をとっていたという。『書紀』にはさらに多くの日朝関係記事が記され、なかには干支(かんし)二運(120年)を下げれば史実と考えられるものもある。また4か所にわたって『魏志(ぎし)』や『晋書(しんじょ)起居注』が引用され、編者が神功を倭(わ)の女王(卑弥呼(ひみこ))に比定していたことは疑いない。
この伝説は、古くから朝廷に伝えられていた朝鮮半島侵略の物語に、各地で語られていた母子神信仰に基づく民間伝承的なオホタラシヒメの伝承や、京都府綴喜(つづき)郡に居住した古代豪族息長(おきなが)氏の伝承などが加わり、さらに7~8世紀に古代天皇制の思想によって潤色を受け、最終的に記紀に定着したと考えられる。
[塚口義信]
『塚口義信著『神功皇后伝説の研究』(1980・創元社)』
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(神田典城)
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記紀伝承上の人物。気長宿禰王(おきながのすくねのおおきみ)(「古事記」では息長宿禰王)の女。名は気長足姫(おきながたらしひめ)尊(「古事記」では息長帯比売)。仲哀天皇の皇后。熊襲(くまそ)征討のため筑紫に赴いた仲哀天皇が神託にそむいて没したのをうけ,熊襲を討った。翌年さらに神託によって新羅(しらぎ)征討の軍をおこして服属させ,高句麗・百済(くだら)も従ったと伝える。帰国後,皇后は九州で応神天皇を生んだが,それを知った仲哀天皇の子の忍熊(おしくま)王・麛坂(かごさか)王が反乱をおこしたため,これを鎮圧した。その後,応神即位まで皇后のまま摂政。皇后の実在性については,「オキナガタラシヒメ」という名が7世紀初頭頃にふさわしい名であることなど疑問がある。朝鮮出兵の説話も,6世紀後半以後に現在のかたちにまとめられた可能性が強い。しかし朝鮮半島との関係についての「日本書紀」の記事には,百済からの七枝刀(ななつさやのたち)献上の話など,干支二運,すなわち120年くり下げると史実にあうものがあることも指摘されている。
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…阿度部(あとべの)磯良ともいう。《太平記》巻三十九によれば,神功皇后が三韓に征するさい天神地祇を常陸の鹿島に招き軍評定を行ったが,ひとり海底に住む阿度部磯良のみが不参であった。諸神が神遊(かみあそび)の庭をもうけ〈風俗・催馬楽(さいばら)〉を歌わせたところ,磯良は感にたえかねて現れ出たが,容姿は貝や虫のとりつく醜い様を示しており,それを恥じて召請に応じなかったのだという。…
…標高284m。山名は,神功皇后が朝鮮出兵の戦勝を祈念して鏡を山頂に埋めたことによると伝える。また任那に渡る大伴狭手彦(おおとものさでひこ)の軍船に向かって,土地の長者の娘松浦佐用姫(まつらさよひめ)がこの山から領巾(ひれ)を振って別離を悲しんだという伝説から,領巾振(ひれふり)山の別名があり,《万葉集》などに歌われている。…
…福岡市に鎮座。祭神は神功皇后,または仲哀天皇といわれ諸説あるが,現在は仲哀天皇,神功皇后,相殿に応神天皇,住吉大神をまつる。旧官幣大社。…
…古来,称制の事例は,清寧天皇の没後に億計(おけ)(仁賢天皇),弘計(おけ)(顕宗天皇)両皇子が互いに辞譲して皇位につかなかった間,姉の飯豊青(いいとよあお)皇女が政務を執ったのを初例とし,ついで斉明天皇の没後,皇太子中大兄皇子が3年間称制した例,天武天皇の没後,皇后鸕野讃良(うののさらら)媛(持統天皇)が同じく3年間政務を執った例の3例がある。ところで《日本書紀》によると,仲哀天皇没後,応神天皇のまだ即位しない間,神功皇后が政務を執ったのを摂政とするが,摂政は天皇の在位しているときに,皇族等が天皇に代わって政治を執るのをいうことからすると,神功皇后の統治形態は摂政よりも称制に当たる。また《続日本紀》によると,文武天皇の没後,元明天皇が践祚に先立つ2ヵ月間に万機を摂行したのも,称制といえよう。…
…しかし,これらの事情が687年ごろから変化し,日本が上位に立つ形で国交を行おうとして新羅と対立しはじめた。日本側はこの要求を出す根拠として,神功皇后新羅出兵の伝承を造作,強調した。新羅は733年に唐の渤海遠征を助け,一挙に対唐関係を好転させ,735年には懸案の領土問題が解決した。…
※「神功皇后」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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