改訂新版 世界大百科事典 「法住寺殿」の意味・わかりやすい解説
法住寺殿 (ほうじゅうじどの)
平安京外の七条大路末,東山に12世紀中期に営まれた後白河上皇の院御所。七条殿,東山御所などとも呼ばれた。この場所には10世紀末に藤原為光の創建した法住寺があり,子息たちに伝えられたが,11世紀前半の火事で焼失した。信西の妻によって一堂が造られた後,後白河上皇が院御所として建造した。これが法住寺殿の始まりである。上皇は1161年(応保1)4月13日に初めて移徙(いし)し,上皇の女御で高倉天皇の生母である平滋子(建春門院)も同居した。滋子はこの一郭に最勝光院を建造し,35歳の若さで没し,近くに造られた法華堂に葬られた。1171年(承安1)冬に高倉天皇のもとへ入内した平徳子(建礼門院)は,この屋敷から輿入れしている。法住寺殿の敷地には最勝光院,蓮華王院(三十三間堂)などの建物ができ,12世紀後半には華やかな歴史を展開した。しかし1183年(寿永2)11月19日源義仲の院御所襲撃事件で法住寺殿は火をかけられ焼亡した。鎌倉時代に入って源頼朝の援助で造営されたが,1年後に法皇は没し,法華堂に葬られた。
執筆者:朧谷 寿
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