(櫻井陽子)
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生没年ともに異説がある。高倉天皇の中宮。名は徳子。平清盛の次女。母は平時子(二位尼)。1171年(承安1)従三位に叙され,後白河法皇の猶子として入内,女御宣下のうえ翌年中宮に冊立。78年(治承2)言仁親王(安徳天皇)を生み,81年(養和1)院号を与えられて建礼門院と称する。しかしこの間,諸国源氏の蜂起により内乱が勃発。83年(寿永2)平氏一門は安徳天皇と門院を奉じて西走。85年(文治1)長門壇ノ浦で一族滅亡のおり,天皇とともに入水したが,女院のみ救助されて帰京,吉田の律師実憲の坊に入り,同年5月落飾して法名を真如覚と称した。ついで吉田野津御所から大原寂光院に移り,終世仏に仕えた。後白河法皇が大原に女院を訪れたときの話は《平家物語》灌頂巻の名文で知られ,源頼朝も平宗盛の旧領摂津国真井・島屋両荘を彼女に贈って生活の資とした。没後は寂光院裏山の大原西陵に葬られた。
執筆者:杉橋 隆夫
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1155~1213.12.13
高倉天皇の中宮。名は徳子(とくこ)。平清盛の次女。母は平時子。1171年(承安元)12月,後白河上皇の猶子(ゆうし)として入内。女御となり,翌年2月,中宮に立てられる。78年(治承2)安徳天皇を生み,81年(養和元)院号宣下。この間,源氏の蜂起による内乱が勃発。83年(寿永2)7月,平氏一門は安徳天皇と女院をともなって都を落ち,85年(文治元)3月,長門国壇ノ浦(山口県下関市)の戦で滅亡。女院は安徳天皇とともに入水したが,女院のみ救助されて京都に送還。同年5月出家し,大原の寂光院に移って余生を送った。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…寺伝では聖徳太子の創建という。平家滅亡後,建礼門院が当地に隠棲して一門の菩提を弔い,これを哀れんだ後白河法皇が臨幸した平家の哀話は,《平家物語》や能の《大原御幸(おはらごこう)》によって名高い。寺境は閑静で,境内にはいまも《平家物語》にちなむ種々の旧跡が残り,寺の背後に建礼門院陵(大原西陵)がある。…
…一門の人々は政界の有力者とそれぞれ婚姻関係を結んだが,とくに清盛の娘たちは,盛子(せいし)が関白藤原基実(もとざね)の室となり,基実が1166年に24歳で他界したときには,その遺領を室盛子に継がせ,清盛は盛子の後見として実質的に摂関家領を押領してしまった。盛子の妹寛子は基実の子基通(もとみち)の室となったほか,徳子(建礼門院)は高倉天皇の中宮となって安徳天皇を生んでいる。安徳天皇の即位(1180)により,清盛は天皇の外祖父の地位を得ることとなる。…
※「建礼門院」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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