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建礼門院 けんれいもんいん

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

建礼門院
けんれいもんいん

[生]久寿2 (1155)/保元2 (1157). 京都
[没]建保1 (1213).12.13. 京都
高倉天皇の中宮。名は徳子。父は平清盛,母は平時信の娘時子。承安1(1171)年高倉天皇の女御として入内し,翌年中宮となった。治承2(1178)年言仁親王(→安徳天皇)を産み,養和1(1181)年門院宣下。元暦2(1185)年平氏が壇ノ浦の合戦に敗れると,安徳天皇とともに入水したが救助され,落飾して真如覚と号した。のち大原寂光院に閑居して仏に仕えた。陵墓は寂光院裏山の大原西陵。

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デジタル大辞泉の解説

けんれい‐もんいん〔‐モンヰン〕【建礼門院】

[1155~1213]高倉天皇の中宮。安徳天皇の母。平清盛の次女で、名は徳子。寿永4年(1185)壇ノ浦の戦いに敗れて安徳天皇とともに入水したが、助けられて京都にかえり、尼となって大原寂光院で余生を送った。

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百科事典マイペディアの解説

建礼門院【けんれいもんいん】

高倉天皇の中宮(ちゅうぐう)。名は徳子(とくこ)。父は平清盛。母は時子(ときこ)。高倉天皇の中宮として1178年安徳天皇を産む。1183年平氏とともに西走,壇ノ浦の戦で入水したが,助けられて帰京。
→関連項目建礼門院右京大夫集寂光院高倉天皇平家物語

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

建礼門院 けんれいもんいん

1155-1214* 平安後期-鎌倉時代,高倉天皇の中宮(ちゅうぐう)。
久寿2年生まれ。平清盛の次女。母は平時子。承安(じょうあん)元年(1171)女御,2年中宮となり,治承(じしょう)2年(1178)安徳天皇を生む。養和元年院号宣下。壇ノ浦の戦いで平氏が敗れたとき,安徳天皇とともに海に身を投じたが救助された。京都にもどり出家,大原寂光院にすむ。建保(けんぽ)元年12月13日死去。59歳。名は徳子。
【格言など】なべて世のはかなきことを悲しとはかかる夢見ぬ人やいひけむ

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朝日日本歴史人物事典の解説

建礼門院

没年:建保1.12.13(1214.1.25)
生年:久寿2(1155)
平安末期の女院。高倉天皇の中宮。安徳天皇の母。名は徳子。太政大臣平清盛と従二位平時子の娘。同母兄弟に宗盛,知盛,重衡らがいる。父の政治権力の拡大,後宮政策の一環として承安1(1171)年12月26日,後白河法皇の猶子として高倉天皇の女御となる。翌年2月10日中宮。治承2(1178)年皇子(安徳天皇)誕生,4年皇子の即位により国母となる。翌養和1(1181)年1月14日高倉上皇崩御のとき,父清盛が徳子の後白河法皇入内を企むが,徳子の強い抗議にあって断念。11月25日院号宣下。寿永2(1183)年7月源義仲の入京,平家西走に安徳天皇を擁して従う。文治1(1185)年3月24日壇の浦での一門滅亡時に入水するが助けられて京都に戻り剃髪。法名真如覚。その秋に大原寂光院に移り,一門の菩提を祈る。翌年後白河法皇が女院を訪れるくだりは,説話集『閑居友』(1222)にも記事があるが『平家物語』大原御幸」が有名で,女院は変転激しい人生を生きながら六道を経廻したと語る。が,近親相姦などを匂わせる平家物語』の異本もあり,高貴な女性の栄光と転落とともに,汚れた聖女の伝承もまつわる。鎌倉幕府は文治3年,平宗盛旧領の摂津国真井・嶋屋両庄を贈った。女院の没年は『平家物語』や諸記録に様々に記される。なかでも一方系『平家物語』では「灌頂巻」として女院の後半生をまとめ,女院の往生をもって全巻の終焉として,一門鎮魂の意義をもたせている。『建礼門院右京大夫集』には女院の人生の栄華と悲哀が惻々と描かれる。

(櫻井陽子)

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世界大百科事典 第2版の解説

けんれいもんいん【建礼門院】

1155‐1213(久寿2‐建保1)
生没年ともに異説がある。高倉天皇の中宮。名は徳子。平清盛の次女。母は平時子(二位尼)。1171年(承安1)従三位に叙され,後白河法皇の猶子として入内,女御宣下のうえ翌年中宮に冊立。78年(治承2)言仁親王(安徳天皇)を生み,81年(養和1)院号を与えられて建礼門院と称する。しかしこの間,諸国源氏の蜂起により内乱が勃発。83年(寿永2)平氏一門は安徳天皇と門院を奉じて西走。85年(文治1)長門壇ノ浦で一族滅亡のおり,天皇とともに入水したが,女院のみ救助されて帰京,吉田の律師実憲の坊に入り,同年5月落飾して法名を真如覚と称した。

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大辞林 第三版の解説

けんれいもんいん【建礼門院】

1155~1213) 高倉天皇の中宮。安徳天皇の母。平清盛の次女。名は徳子。1185年平氏が壇浦に敗れた時、安徳帝と入水したが助けられ、京都大原寂光院に出家、御子と平家一門の菩提をとむらった。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

建礼門院
けんれいもんいん

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世界大百科事典内の建礼門院の言及

【寂光院】より

…寺伝では聖徳太子の創建という。平家滅亡後,建礼門院が当地に隠棲して一門の菩提を弔い,これを哀れんだ後白河法皇が臨幸した平家の哀話は,《平家物語》や能の《大原御幸(おはらごこう)》によって名高い。寺境は閑静で,境内にはいまも《平家物語》にちなむ種々の旧跡が残り,寺の背後に建礼門院陵(大原西陵)がある。…

【平清盛】より

…一門の人々は政界の有力者とそれぞれ婚姻関係を結んだが,とくに清盛の娘たちは,盛子(せいし)が関白藤原基実(もとざね)の室となり,基実が1166年に24歳で他界したときには,その遺領を室盛子に継がせ,清盛は盛子の後見として実質的に摂関家領を押領してしまった。盛子の妹寛子は基実の子基通(もとみち)の室となったほか,徳子(建礼門院)は高倉天皇の中宮となって安徳天皇を生んでいる。安徳天皇の即位(1180)により,清盛は天皇の外祖父の地位を得ることとなる。…

※「建礼門院」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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