法住寺(読み)ほうじゅうじ

精選版 日本国語大辞典 「法住寺」の意味・読み・例文・類語

ほうじゅう‐じホフヂュウ‥【法住寺】

  1. [ 一 ] 平安中期、一条天皇のときに藤原為光が創立した寺。現在、京都市東山区にある三十三間堂の東南方にあったと伝えられる。長元五年(一〇三二)焼失。永暦二年(一一六一後白河法皇の御所(法住寺殿)が跡地に建てられた。
  2. [ 二 ] 大阪市北区西寺町にあった寺。境内の観音堂は大坂三十三所の第四番札所であった。
  3. [ 三 ] 京都市東山区三十三間堂廻り町にある天台宗の寺。[ 一 ]を継承。

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日本歴史地名大系 「法住寺」の解説

法住寺
ほうじゆうじ

京都市東山区にあった寺院。「山槐記」久寿三年(一一五六)正月七日条に、後白河天皇が中納言入道の法住寺堂へ行幸した記事がある。その道筋は「八条西行、河原斜折北艮、八条坊門末堂西門入御」とあり、その位置は九条末の法性ほつしよう寺より北、八条坊門ぼうもんから七条の間の山手にあったと推測できる。中世の「拾芥抄」は「法性寺北」とし、近世の「山城名勝志」には「故老云旧跡今為田畠蓮華王院巽一町許有名水、号桐井、伝云為光公第井水辺多植桐云々此井第宅跡歟」とあり、蓮華王れんげおう(三十三間堂、現東山区)の巽一町ほどのところとする。藤原為光の創建で、「日本紀略」永延二年(九八八)三月二六日条に「右大臣為光供養法住寺、一院、公卿、弁、少納言、外記、史等皆参」とある。この日為光は円融上皇以下の列席のもとに落慶供養を営んだ。「扶桑略記」同日条もこのことを述べ、五間の本堂に本尊金色丈六釈迦如来と薬師如来、観音・延命・如意輪の各菩薩を安置し、また本堂(釈迦堂)の東西に法華三昧堂(普賢菩薩安置)常行三昧堂(阿弥陀世尊を安置)のあることを記す。「大鏡」の為光について述べた個所には「法住寺をぞ、いといかめしうをきてさせたまへる、摂政・関白せさせ給はぬ人の御しわざにては、いとまうなりかし」とあり、分不相応とみられるほどの結構だったことが推測される。

為光の娘子は花山天皇女御(弘徽殿の女御)となったが寛和元年(九八五)急逝した。為光の嘆きは一方でなく、翌年右大臣、翌々年従一位となったがもはや現世の出世は望まず、「女御の御後は、たゞ法師よりもけにて、世と共に御行ひにて過させ給ふ」と「栄花物語」は描く。


法住寺
ほうじゆうじ

[現在地名]珠洲市宝立町春日野

宝立ほうりゆう山東麓に位置する。吼木山と号し、高野山真言宗。本尊不動明王。弘仁年間(八一〇―八二四)空海が草創、中興虚円(または康円)という寺伝をもつ(貞享二年寺社由緒書上)。建久八年(一一九七)三月、無縁所であった当寺は若山わかやま庄領家日野資実によって祈祷所に定められた(「日野資実下文案」法住寺文書、以下断らないかぎり同文書)。以後鎌倉期を通して日野家による寺田・山林の寄進・安堵がなされる。建長四年(一二五二)馬上免九段二が旧来の如く免除(同年二月四日日野資宣下文)、文永四年(一二六七)洪水のため流失した薬師堂灯油馬上免に対し西教の訴えで不作田二段を寄進(同年五月二一日日野資宣御教書)、永仁五年(一二九七)鎮守の白山宮神田を安堵している(同年一一月二二日日野家下知状)。また若山庄地頭政所代が弘安七年(一二八四)一一月、白山宮に一一月御祭田として所々の堀田を寄進している(若山庄地頭政所代田地寄進状)


法住寺
ほうじゆうじ

[現在地名]丸子町大字東内 荻窪 西畑

独鈷とつこ山の南山麓にある。付近の集落を虚空蔵こくぞうとよぶ。天台宗延暦寺末、本尊阿弥陀如来、貞観年中(八五九―八七七)の創立と伝える。文明一八年(一四八六)再興(小県郡史)。本尊虚空蔵菩薩を納める虚空蔵堂には、同年住職什誓の時の大檀那平朝臣繁則が再建したと棟札にある。堂は和様に禅宗様の手法を加えた室町期の様式のもので、入母屋の破風に特徴のある建物で、桁行三間、梁間四間、柿葺、周囲切目縁をめぐらし、前に一間の向拝(元禄時代の後補)を付けている。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「法住寺」の意味・わかりやすい解説

法住寺[大韓民国]
ほうじゅうじ[だいかんみんこく]
Pǒpchu-sa

大韓民国(韓国),チュンチョンプク(忠清北)道南部のポウン(報恩)郡ソンニ(俗離)山にある仏寺。新羅真興王14(553)年に義信祖師によって創建され,8世紀中頃には真表律師によって弥勒信仰の根本道場となった。朝鮮半島で唯一現存する木造五層塔の捌相殿(べっそうでん)は高さ約 21mで,慶長2(1597)年の豊臣秀吉朝鮮出兵(壬辰の倭乱。→文禄・慶長の役)で焼かれ,朝鮮王朝仁祖4(1626)年に再建された。法住寺は 2018年,通度寺浮石寺鳳停寺など国内に点在する六つの山岳仏教僧院とともに世界遺産の文化遺産に登録された。

法住寺
ほうじゅうじ

平安時代に右大臣藤原為光の創建した寺。京都市七条通にあったが,寿永2 (1183) 年に源義仲の兵火にあって焼失。その後源頼朝が再興したが,後白河法皇の崩御ののちに廃絶された。

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改訂新版 世界大百科事典 「法住寺」の意味・わかりやすい解説

法住寺 (ほうじゅうじ)

藤原北家の私寺の一つ。現在は廃寺。寺址は京都市東山区の三十三間堂の付近と推定される。太政大臣藤原為光が娘忯子(花山天皇女御)の菩提を弔うため建立した。落慶は988年(永延2)。本堂に丈六釈迦如来と薬師如来以下諸仏を安置し,本堂の東西に常行三昧堂と法華三昧堂があり,壮麗な寺院だったが,1032年(長元5)の火災で堂舎が焼失し,平安中期には早くも衰微した。平安末期,後白河法皇がここに〈法住寺殿〉と呼ばれた後院を造営して,院政を執ったので,このころ,為光が創建した法住寺の寺地の大半はこれに割かれたと考えられている。
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法住寺 (ほうじゅうじ)

韓国,忠清北道報恩郡俗離山にある寺院。寺伝によると新羅真興王(在位540-576)創立,聖徳王が重修したと伝える。統一新羅時代の双獅子石灯,石蓮池,四天王石灯,磨崖弥勒菩薩像など多くの石造物を残すが,建物はいずれも李朝時代のものである。1624年(仁祖2)建立の捌相殿(べつそうでん)は,半島で現存唯一の木造五重塔で心礎に舎利を奉安。各層間の逓減が大きく,韓国独自の工法による多層建物の架構法を示す典型例である。現在も信仰・観光の中心地として多くの善男善女でにぎわっている。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「法住寺」の意味・わかりやすい解説

法住寺
ほうじゅうじ / ポフチュウサ

韓国五大寺の一つとされている仏教寺院。忠清北道の報恩の東、つづら折りの坂道を登った俗離山の麓(ふもと)にある。553年に義信が創立したと伝えられ、のちに真表律師(しんぴょうりっし)が当代随一の名刹(めいさつ)に育て上げた。境内には大雄宝殿、五重塔の捌相(べっそう)殿(1626年の再建)、高さ33メートルの石造弥勒菩薩(みろくぼさつ)の巨像(1964)、その他多くの堂宇があって壮観である。捌相殿は威厳と安定感にあふれ、韓国五重塔の最高傑作の一つである。新羅(しらぎ)時代の雙獅子(そうじし)石灯、四天王石灯、石蓮池(水盤)など、貴重な国宝が多い。

[紅山雪夫]

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デジタル大辞泉プラス 「法住寺」の解説

法住寺

長野県上田市にある天台宗の寺院。室町時代に建てられたとされる虚空蔵堂は国の重要文化財に指定されている。

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世界大百科事典(旧版)内の法住寺の言及

【法住寺殿】より

…七条殿,東山御所などとも呼ばれた。この場所には10世紀末に藤原為光の創建した法住寺があり,子息たちに伝えられたが,11世紀前半の火事で焼失した。信西の妻によって一堂が造られた後,後白河上皇が院御所として建造した。…

【俗離山】より

…韓国,忠清北道報恩と慶尚北道尚州の境の小白山脈上の天皇峰(1057m)を主峰に,毘盧峰,観音峰,文蔵台,立石台の秀峰から成り,〈小金剛〉と畏敬されている聖山。山内には名刹法住寺が鎮座する。俗離山の名は,新羅時代一人の農夫が,くじけがちな自分の信仰心を牛にも劣るとくやみ,ついに髷を切り落とし俗世を離れ,この山にこもって僧となったことにちなむといわれている。…

※「法住寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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