日本歴史地名大系 「法勝寺町」の解説 法勝寺町ほつしようじまち 鳥取県:米子市米子城下法勝寺町[現在地名]米子市法勝寺町・富士見町(ふじみちよう)二丁目道笑(どうしよう)町の西にある。東端の出雲街道および伯耆街道から直角に出て、西の加茂(かも)川河口まで延びる通りの起点となる町人町。外堀は道笑町の南の日野(ひの)町西裏を通り、当町南裏で南北方向から東西方向にL字形に曲がる。総間数一〇七間余。北側の町裏に西念寺(さいねんじ)小路(三四間半)がある(明治二年「町々間数等書上」米子市史)。外堀の横町(よこまち)橋をもって東(ひがし)町の侍屋敷に通じ、北は加茂川の土橋をもって福原(ふくばら)方面に通じた。法性寺町とも記され、町名は会見(あいみ)郡法勝寺城下(現西伯町)から移ってきた人々の居住地であったことによる。会見郡篠畑(ささばた)・法勝寺(現同上)に住していた越後長尾氏の系統と伝える長尾氏一族の長尾忠兵衛景賢は、慶長五年(一六〇〇)以後中村氏時代に米子に移り、城下町づくりに強力に働いたといわれる。長尾氏は長尾屋と称し、その広い屋敷は出雲街道と西へ延びる町筋との交点にあったが、延宝年中(一六七三―八一)分割して寺に寄進されたという(「長尾家記録」長尾家文書など)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by