朝日日本歴史人物事典 「津軽信政」の解説
津軽信政
生年:正保3.7.18(1646.8.28)
江戸前期の大名。弘前藩(青森県)4代藩主。3代藩主信義の子,母は添田理兵衛の娘。弘前城で生まれる。幼名平蔵。明暦2(1656)年11歳で襲封し,当初は叔父の信英の後見を受け,以後約50年にわたって弘前藩政を担い,「中興の英主」と呼ばれた。治政における主な業績としては,御定書の制定により藩制機構を確立し,大規模な領内の新田開発を進め,養蚕業をはじめとする各種産業の振興を図った。寛文9(1669)年の蝦夷蜂起に際しては蝦夷地へ出兵し,幕府から命じられた越後高田検地や日光東照宮の普請役も遂行した。文化事業にも造詣が深く,山鹿流兵学を導入し,吉川神道を学び,日本の古典,歌道,神道,茶道にも通じ,元禄期の大名七傑に数えられた人物でもあった。しかし元禄8,9(1695,96)年の大飢饉においては,領内で大量の餓死者を出すなど治政の後半は藩政にさまざまなひずみが生じた。貞享4(1687)年,烏山(栃木県)の那須家へ養子に入れた信政の子資徳をめぐって起きた後継争いの烏山騒動に連座して閉門を命じられたが,「慎の内,休芸など無用なり,音のなき事をすべし,(中略)此節ハ学問至極なり,取分ケ士分ハ兵学をすべし」と,自身の不運にもかかわらず,逆に家臣達に学問を奨励し,藩内の動揺を押さえる気質の持ち主でもあった。<参考文献>菊池元衛編『津軽信政公事績』
(長谷川成一)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報