マンサール(英語表記)François Mansart

改訂新版 世界大百科事典 「マンサール」の意味・わかりやすい解説

マンサール
François Mansart
生没年:1598-1666

フランス古典主義建築の確立者。Mansardとも書く。建築家J.H.マンサールの大伯父。貧しい職人階級の出身で,若くから建築に才能を発揮し,王弟ガストン・ドルレアンのためのブロアの城館改築計画(1635-38,一部のみ実現),王妃アンヌ・ドートリッシュによるバル・ド・グラース教会(パリ,1645-46。工事途中で更迭され平面計画のみマンサール案に従って実現),国王側近貴族ルネ・ド・ロングイユのためのパリ近郊メゾンラフィットの城館(1651)などの大作を手がけ,この時代を代表する建築家となる。性格が気むずかしく,仕事熱心のあまり絶えず設計を変更し,そのための工費増しも意に介さなかったため,施主との衝突が絶えず,未完に終わった作品が多い。これが災いして王室関係の重要な仕事を与えられる機会も少なく,晩年にルーブル宮殿改築計画作成を命ぜられたが,これも実現しなかった。彼の緻密で堅固な純建築的手法は,はじめてイタリアの影響下から脱し,フランス独自の古典主義様式を確立したとされる。複雑な敷地に巧みにシンメトリカルな秩序を導入する都市住宅(オテル)の手法,壮大な幾何学的庭園と一体になった城館,ドームを主題とする求心的構成の教会堂などは,彼の創意に負うところが大きい。またフランス特有の二つの勾配をもつ腰折れ屋根は,必ずしも彼の創案ではないが,これを駆使して新しい手法を編み出した彼の名をとって,マンサード屋根mansard roof(屋根)と呼ばれている。
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マンサール
Jules Hardouin-Mansart
生没年:1646-1708

フランス,ルイ14世時代最後の大建築家。Mansardとも書く。本来はアルドゥアン姓であるが,大伯父の大建築家F.マンサールに教育をうけ,彼にあやかってのちにマンサール姓を付す。パリ生れ。早くから才能を認められて数多くの都市住宅(オテル)や城館を手がけ,1686年には王室主席建築家,99年には王室作事総監督の称号を与えられ,また1693年には建築家として異例の叙爵(サゴンヌ伯爵)を受けるなど,名実ともにフランス建築界の第一人者となる。代表作にはベルサイユ宮殿拡張計画(1678以降,〈鏡の間〉〈大トリアノン〉,礼拝堂など),パリのアンバリッド付属ドーム(1679-1706)などがある。大伯父よりもそのライバルル・ボーの影響を強く受け,イタリアのものに匹敵する壮大なバロック作風を展開したが,同時に,柔軟な平面計画,鏡の使用やスタッコによる軽快・繊細な室内意匠の面で,次代のロココ様式に先鞭をつける役割を果たした。
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百科事典マイペディア 「マンサール」の意味・わかりやすい解説

マンサール

フランスの建築家。パリ生れ。大叔父F.マンサールに学ぶ。1674年ルイ14世の宮廷建築家となり,ベルサイユ宮殿関係の増改築に従事したほか,バンドーム広場その他多くの公共建築を手がけた。ル・ボーと並んでルイ14世治下の豪壮・華麗なバロック建築の代表的存在として知られ,その影響は次代のロココも含めて多方面に及んだ。
→関連項目コット

マンサール

フランスの建築家。パリ生れ。明快,均整を特色とするフランス古典主義建築の代表的作家の一人で,代表作はパリ近郊のメゾン・ラフィット城館。フランス・バロック建築を代表するJ.H.マンサールの大伯父。
→関連項目ル・ボー

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「マンサール」の意味・わかりやすい解説

マンサール
Mansart, Jules Hardouin

[生]1646.4.16頃.パリ
[没]1708.5.11. マルリ
フランスの建築家。画家 R.アルドゥアンの子で F.マンサールの甥の子にあたり,1666年にマンサール姓を名のった。 75年王室建築家に指名され,王立建築アカデミー会員にも選ばれた。 76年,ルイ 14世の命により,モンテスパン侯夫人の城館を設計,78年にはベルサイユ宮殿の拡張を指揮し,鏡の間 (1678~84) ,オランジュリー (81~86) ,グラン・トリアノン (87) ,礼拝堂 (99~1710) ,南翼部,北翼部を設計。古典主義とバロック様式を巧みに融合し,マルリ宮 (1679~86) ,オテル・デザンバリッドのサン・ルイ聖堂 (80~1706) ,その他パリ内外の多くの宮殿,城館の設計,監督にあたったが,ベルサイユ宮殿礼拝堂の建築監督中に死亡。

マンサール
Mansart, François

[生]1598.1.13. パリ
[没]1666.9.3. パリ
フランスの建築家。パリの大工の子で,サロモン・ド・ブロスの弟子。 17世紀のバロック建築に古典主義を取り入れた。作品シャトー・ド・メゾン (メゾン・ラフィット,1642~51) およびバル・ド・グラース聖堂 (1645~46) 。その他住宅建築,聖堂建築などがある。マンサール屋根は彼の名に由来する。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「マンサール」の意味・わかりやすい解説

マンサール(François Mansart)
まんさーる
François Mansart
(1598―1666)

フランスの建築家。パリに生まれる。義兄のもとで修業したのちサロモン・ド・ブロッスに師事したといわれる。16世紀初頭のバロック様式に影響されるが、これを克服し、古典的モチーフをフランスのシャトー(城館)建築の伝統形式に調和させて、フランス古典主義建築の立役者となった。初期の傑作であるブロアのシャトーのガストン・オルレアン翼屋(1638)では、中央部の凱旋(がいせん)門モチーフなど古典様式を採用しながら、建築体の構成やプロポーションに明晰(めいせき)、簡潔、そして優雅といったフランス固有の感覚をよく生かしている。代表作とみなされるメゾン・シュル・セース(1651、現在のメゾン・ラフィット)の外観にはバロックの影響が否めないが、勾配(こうばい)の急な屋根や煙突の多用によってフランス建築の伝統様式が確保されている。

[濱谷勝也]


マンサール(Jules Hardouin-Mansart)
まんさーる
Jules Hardouin-Mansart
(1646―1708)

フランスの建築家。建築家フランソア・マンサールの姪(めい)と王家画家アルドゥアン某の子として生まれ、1668年以降マンサールを名のった。28歳のときルイ14世の愛人モンテスパン夫人のためにクラニーのシャトー(城館)を完成して力量を認められ、宮廷建築家に登用された。ルイ・ルボーの死後、後任者として1679年にベルサイユ宮殿の増改築を任されるが、88年までに庭園に面した翼屋を南北に拡張した。この建造物に課せられた使命は、絶対主義王制下の国王、貴族および廷臣の統制ある生活ぶりを誇示すべく、一種の舞台装置たることであった。またここの庭園に建てた大トリアノンや義兄ロベール・ド・コット(1656―1735)と共同で起工したベルサイユ宮殿礼拝堂は、フランス18世紀の建築様式を先駆するものである。

[濱谷勝也]


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世界大百科事典(旧版)内のマンサールの言及

【宮殿】より

…帝王,領主といった支配者もしくは主権者の壮麗な館を指す。古代専制国家の時代以来,今日にいたるまで建設され続けてきたが,歴史的背景,風土的条件によってその内容は多岐にわたる。場合によっては,と同格のこともある。ヨーロッパでは,英語のパレスpalace,フランス語のパレpalais,ドイツ語のパラストPalast,イタリア語のパラッツォpalazzoといった語に対応するが,それらの意味するところは,地域や時代によって異なる。…

【ベルサイユ宮殿】より

…パリ南西郊ベルサイユにある,ルイ14世の造営になる宮殿。東端に位置する宮殿château,その背後に広がる庭園,離宮グラン・トリアノン,プチ・トリアノンなどからなる。 騒擾(そうじよう)事件が頻発し衛生状態のよくないパリの町を嫌ったルイ14世は,郊外の森に囲まれた田園地帯に,ルイ13世時代の狩りの館を大々的に作りかえる形で,まったく新しいタイプの宮殿,そしてそれに付属する都市を構想し,その意匠を王宮建築家たちにゆだねた。…

※「マンサール」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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