江戸前期の画家。父は《源氏物語画帖》などを描いた光則。1654年(承応3),38歳のとき左近将監に任ぜられ,室町時代最末期に廃絶した土佐派を再興し,宮廷の絵所預となった。また,この年の内裏造営に加わって障壁画を描き,京都の公家社会と画壇に復帰して多年の宿望を果たした。やがて光起は絵所預の地位を子の光成(1646-1710)にゆずり,81年(天和1)に常昭と号して法橋,85年(貞享2)には法眼に叙せられた。この時期の光起は,主題や技法で土佐派の伝統を尊重し,《厳島松島図》《春秋花鳥図》や京都勧修寺の名所図など,金碧障屛画を制作した。だが,他方で水墨画の墨調や,風俗画などの諸ジャンルにも留意し,さらに中国南宋の院体花鳥画を学習して,精細な写生風の鶉図を好んで描いた。晩年には《北野天神縁起絵巻》や《大寺縁起絵巻》(大阪開口(あぐち)神社,1690)を制作,個性的表現よりもむしろ入念な技法の画家にふさわしく,没する直前に《本朝画法大伝》を著した。
執筆者:吉田 友之
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(榊原悟)
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江戸前期の大和絵(やまとえ)画家。光則(みつのり)の子。堺(さかい)に住していたが、1634年(寛永11)父とともに京都に移住。54年(承応3)には宮廷絵所預(えどころあずかり)に任じられ、内裏(だいり)の障壁画を描くなど、宮廷や公家(くげ)のために作画活動を行い、室町末以来衰退していた土佐派を復興した。剃髪(ていはつ)し常昭(じょうしょう)と号す。81年(延宝9)絵所預の地位を子の光成(みつなり)に譲ったが、85年(貞享2)にはついに法眼(ほうげん)にまで叙せられる。光起は伝統的な土佐派の画風に、漢画や宋(そう)の院体画の要素も取り入れて、江戸時代にふさわしい瀟洒(しょうしゃ)な作品を残した。遺品には『厳島(いつくしま)・松島図屏風(びょうぶ)』(徳川家)、『源氏物語図屏風』(東京国立博物館)、『粟穂鶉(あわほうずら)図屏風』(同)などがある。また『本朝画法大伝』を著している。
[加藤悦子]
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1617.10.23~91.9.25
江戸前期の画家。土佐光則の子。法名常昭。堺に生まれ,のち京都に移る。1654年(承応3)従五位下左近衛将監(しょうげん)に任じられ,宮廷絵所預(えどころあずかり)となり土佐家を復興。同年,御所障壁画制作に参加。81年(天和元)に法橋(ほっきょう),85年(貞享2)に法眼(ほうげん)となる。土佐派の伝統を重んじつつ,宋・元の院体画風の花鳥画や狩野派の画法も学び,時代に即応した画風を創造した。代表作「粟穂鶉(あわほうずら)図屏風」。晩年の著作「本朝画法大伝」。
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…この活況を呈した桃山画壇で,光茂の門人の中から土佐光吉が泉州堺でようやく土佐派の細画様式のみを維持して光則や広通に伝授し,他に土佐宗己(そうき)が絵屋(えや)を創立したことが知られるにすぎない。やがて,1634年(寛永11)に土佐光則と門人の広通は堺から京都に進出し,光則の子の土佐光起が宮廷の絵所預となって念願の土佐派を再興し,広通は晩年に住吉派を興して子の広澄に託した。光起による再興土佐派は,光成,光祐,光芳と続いて,光芳の子光淳と光貞の時期に2家に分かれ,幕末にいたるまで両家が絵所預の命脈を保った。…
※「土佐光起」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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