改訂新版 世界大百科事典 「南明」の意味・わかりやすい解説
南明 (なんみん)
Nán Míng
生没年:1644-62
中国,明朝滅亡ののち,その遺王たちは江南各地で清朝に対抗したが,彼らが建てた政権を南明と総称する。三藩(福王朱由崧,唐王朱聿鍵(いつけん),永明王朱由榔),四藩(三藩に魯王朱以海を加える)と呼ばれることもある。李自成が北京を陥れ,崇禎帝が自殺して明朝が滅ぶと,明朝復興運動が相次いで起こった。最初に設立されたのは南京の福王政権で,福王は万暦帝の孫にあたり,史可法,馬士英らに擁立されて弘光帝をとなえた。しかし彼はその器でなく,また政府部内では明末以来の党争がもちこされ,強力な団結に欠けていたので,1645年(清の順治2)4月清軍の攻撃をうけて揚州で史可法が戦死すると,5月には南京も陥り,帝は捕らえられて殺された。ついで6月に唐王が黄道周,鄭芝竜らに推戴されて福州で帝位につき,隆武帝をとなえた。このとき別に魯王も張煌言らに擁され紹興(浙江省)に拠って監国と称した。
この両政権もうちに廷臣の不和があり,両者は反目を続けるうち清軍の攻撃をうけ,魯王は福建に逃れ,やがて鄭芝竜の子鄭成功を頼ることになる。一方唐王も福州が陥り,鄭芝竜の降清などにより湖広方面へ逃れようと図ったが汀州(福建省)で討たれた。このあと唐王の弟聿(いつえつ)が広州に拠った(1646)が,まもなく広州も陥落した。これよりさき肇慶(ちようけい)(広東省)では桂王(永明王。福王の従弟)が瞿式耜(くしきし),丁魁楚らに擁立され(1646)永暦帝を称したが,まもなく桂林(広西省)に退いた。このあと桂王は各地を転々としながらも,李自成の残軍の李錦,のちには張献忠の残軍の李定国,孫可望らに頼って中国西南部で抗戦を続けた。しかし孫可望の降清などにより,1659年桂王はビルマ(現ミャンマー)に逃れたが,そこで捕らえられ清軍に引き渡されて,62年(康煕1)昆明(雲南省)で殺された。こうして中国本土の抗清勢力はほぼ平定されたが,このときなお沿海諸島に拠りながら抗清運動を続けたのが鄭成功であった。
鄭成功は初め父の鄭芝竜とともに唐王を助けたが,鄭芝竜の投降後は桂王永暦帝の正朔を奉じ,自立して福建の海上勢力を率い抗清運動を続けた。1658年(順治15)には南京を攻撃するなど海上から清軍を苦しめたが,このあと鄭成功はオランダ人の拠る台湾を攻略(1661),これを根拠地としたが,翌年彼も,彼を頼っていた魯王も相次いで没した。しかし彼の子の鄭経らはその後も永暦の年号を用いて抗戦をつづけ,三藩の乱の際にはこれに呼応して本土攻撃に転じたこともあったが,以後勢力ふるわず83年鄭氏は清朝に下った。
南明の抗清運動は各地の政権がそれぞれ正統を主張して対立し合い,統一勢力を生み出せず,内部には諸臣の間に不和と党争がたえず,新興の清軍の前に敗れ去った。ただこの間に周鶴芝や馮京第また鄭氏一族がしばしば日本に援軍を求め,桂王やその重臣にキリスト教徒が多かったことから,彼らの政権はローマにまで援助を求める使節を派遣するなど注目すべき動きも存在した。
執筆者:谷口 規矩雄
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