浅草橋場町(読み)あさくさはしばちよう

日本歴史地名大系 「浅草橋場町」の解説

浅草橋場町
あさくさはしばちよう

[現在地名]台東区橋場はしば一―二丁目・東浅草ひがしあさくさ一丁目

浅草今戸あさくさいまど町の北にあり、日光道中から分岐して北上する道(旧奥州への本街道)に沿った両側町。東は大川(隅田川)、西は総泉そうせん寺と橋場町在方分の田畑、北も同分田畑。田園簿では幕府領の豊島郡橋場村六六八石余の内。正徳三年(一七一三)同村から分れ、町方支配に属した。規模は南北三八〇間・東西六〇間。年貢地、家作御免町屋敷で高三六石余・反別三町六反余。飛地は総泉寺大門先に浅茅長屋とよばれる一ヵ所、浅草山谷あさくささんや町西方に山谷続屋敷とよばれる一ヵ所、浅草新寺あさくさしんてら町にある臨済宗養安院寺地中の計三ヵ所があった。検地は寛文一〇年(一六七〇)・正徳二年などに行われた。町内には上町中町下町札の辻横ふだのつじよこ町・紅葉もみじ屋敷の小名があった。紅葉屋敷の名は江戸城紅葉山陸尺衆拝領の町屋敷があったことにちなみ、表間口三〇間・裏行二七間。ほかに旗本松浦氏の抱屋敷六三坪があり、長昌寺ちようしようじ門前にあった後藤庄三郎拝領地は享保年中(一七一六―三六)上地となった。文政八年(一八二五)の家数三四九。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報