日本歴史地名大系 「涌谷要害跡」の解説 涌谷要害跡わくやようがいあと 宮城県:遠田郡涌谷町涌谷村涌谷要害跡[現在地名]涌谷町涌谷 下町篦岳(ののだけ)丘陵の南麓、ほぼ中央部を南に張出した標高二〇―三〇メートルの舌状台地にある。西側直下を江合(えあい)川が流れ、その彼岸には西から南にかけて広大な低湿地が広がる。普通涌谷城と称され、近世には涌谷伊達氏の要害館であった。本丸は現在涌谷神社境内になっている標高三〇メートルの頂上平場と推定され、その北側は篦岳丘陵の支脈を掘切っている。本丸の南西には腰曲輪の張出しがあり、前面、南東方向には江戸時代に涌谷伊達氏の居館となる全長約三〇〇メートルの平場が延びる。中世には大崎氏の一族百々氏系の涌谷美濃守が涌谷八郷を支配したという。貞享元年(一六八四)の伊達安芸宗元書上(涌谷伊達家文書)には「私在所遠田郡涌谷、往古誰々居住候哉、不承伝候。先年大崎殿代、涌谷正右衛門と申仁居住申由候得共、右正右衛門何年より何年迄居住候哉、年数年号共相知不申候」とある。同氏は天正一八年(一五九〇)大崎氏とともに滅亡したと伝える。天正一九年亘理重宗は亘理(わたり)城(現亘理郡亘理町)から大沢(おおさわ)村(現田尻町)の百々(どうどう)城に移り、その後当城に移ったとされる。なお「亘理家譜」では天正一八年九月に百々城、翌一九年涌谷城入城としている。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by