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頼三樹三郎 らい みきさぶろう

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美術人名辞典の解説

頼三樹三郎

幕末の志士・儒者。京都生。頼山陽の三男。名は醇、字は子春、別号に鴨崖等。後藤松陰篠崎小竹佐藤一斎梁川星巌らに学ぶ。尊攘論を唱え、星巌・梅田雲浜らと国事に奔走。安政の大獄に連座した。安政6年(1859)歿、35才。

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デジタル大辞泉の解説

らい‐みきさぶろう〔‐みきサブラウ〕【頼三樹三郎】

[1825~1859]江戸末期の尊攘派の志士。京都の人。山陽の三男。大坂・江戸に遊学、勤王の志を抱き、梁川星巌らと国事に奔走。安政の大獄で捕らえられ、刑死。

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百科事典マイペディアの解説

頼三樹三郎【らいみきさぶろう】

幕末の尊攘派の志士。儒者。名は醇(じゅん)。頼山陽の第3子。上洛して開塾,梁川星巌梅田雲浜らと交わり尊攘討幕に奔走。戊午(ぼご)の密勅(みっちょく)降下に関係し,安政の大獄で刑死。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

頼三樹三郎 らい-みきさぶろう

1825-1859 幕末の儒者。
文政8年5月26日生まれ。頼山陽の3男。大坂,江戸に遊学し,嘉永(かえい)2年郷里の京都にもどり家塾をつぐ。梁川星巌(やながわ-せいがん),梅田雲浜(うんぴん)らと尊攘(そんじょう)運動にはしり,将軍継嗣問題では一橋慶喜(よしのぶ)の擁立をはかる。安政の大獄で捕らえられ,安政6年10月7日処刑された。35歳。名は醇。字(あざな)は子(士)春。号は鴨厓。
【格言など】まかる身は君が代おもふ真心の深からざりししるしなるらむ(辞世)

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朝日日本歴史人物事典の解説

頼三樹三郎

没年:安政6.10.7(1859.11.1)
生年:文政8.5.26(1825.7.11)
江戸後期の儒学者,志士。名は醇,字は子厚,子春,通称三樹三郎また三木八,号は鴨崖。頼山陽の3男として京都三本木生まれる。母は梨影。天保11(1840)年大坂で後藤松陰に学び,また篠崎小竹 にもついた。14年江戸に出て昌平黌に入門,弘化3(1846)年退寮後東北漫遊に出,松前に渡り松浦武四郎と交歓する。嘉永2(1849)年帰京後は家塾を守り,梁川星巌,梅田雲浜らと交わった。ペリー来航後尊王攘夷論を唱え,国事に奔走し,星巌,雲浜らと謀議画策した。安政の大獄に際して安政5(1858)年11月捕らえられた。翌年江戸に送られ評定所糾問ののち死罪となる。<参考文献>木崎好尚『頼三樹伝』

(沼田哲)

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世界大百科事典 第2版の解説

らいみきさぶろう【頼三樹三郎】

1825‐59(文政8‐安政6)
幕末の志士,儒者。名は醇,通称三樹三郎,三樹八郎ともいい,号は鴨崖。頼山陽の三男。1843年(天保14)昌平坂学問所遊学,寛永寺の石灯籠を倒すなどして徳川氏への反感を示した。49年(嘉永2)京都で開塾,梅田雲浜(うんぴん),梁川星巌らと交渉を深め,公家の間に幕府批判の意見を入説した。58年(安政5)戊午の密勅降下に関係し井伊大老の失脚をはかったため,安政の大獄で処刑される。【山口 宗之】

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大辞林 第三版の解説

らいみきさぶろう【頼三樹三郎】

1825~1859) 幕末の志士。京都の人。山陽の三男。名は醇。梁川星巌・梅田雲浜らと尊攘運動に奔走。一橋慶喜将軍擁立派と結んで朝廷に働きかけたが、安政の大獄で刑死。

出典|三省堂
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

頼三樹三郎
らいみきさぶろう

[生]文政8(1825).5.26. 京都
[没]安政6(1859).10.7. 江戸
江戸時代末期の尊攘派の勤王家,志士。幼名は造酒八。名は醇。字は子春 (士春) 。三樹八郎また三木三郎と通称し,鴨 厓,古狂生と号した。頼山陽の第3子。幼時から非凡で,父の寵愛を受けたが,8歳の秋,父を失い,川上東山に教えを受け,大坂に下って後藤松陰の塾に学んだ。

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出典|ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

頼三樹三郎
らいみきさぶろう
(1825―1859)

幕末の尊攘(そんじょう)派の志士。名は醇(じゅん)、号は鴨崖(おうがい)。文政(ぶんせい)8年5月26日、頼山陽の子として京都に生まれる。16歳のとき大坂の後藤松陰(しょういん)に師事、かたわら篠崎小竹(しのざきしょうちく)に学ぶ。1843年(天保14)羽倉簡堂(はくらかんどう)に伴われて江戸に行き昌平坂(しょうへいざか)学問所に学ぶ。上野不忍池(しのばずのいけ)の弁天堂の石灯を倒したかどで46年(弘化3)退寮を命じられたといわれる。同年東北漫遊の旅に出、49年(嘉永2)帰京。家塾を守るかたわら梁川星巌(やながわせいがん)ら尊攘の士と交わり、58年(安政5)水戸藩への攘夷勅諚(じょういちょくじょう)降下を運動、大獄が起こると9月に連座して捕らえられ、翌年江戸評定所(ひょうじょうしょ)で訊問(じんもん)ののち、10月7日国家重大の政事向きを論じ天下を擾乱(じょうらん)させたとして死罪となった。大橋訥庵(とつあん)が回向(えこう)院(東京都荒川区)に遺骸(いがい)を葬り、62年(文久2)死罪御免(ごめん)となってのち松陰神社(世田谷(せたがや)区)境内に改葬された。[頼 祺一]
『木崎好尚著『頼三樹伝』(1943・今日の問題社)』

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