春分・秋分を中日として,その前後おのおの3日にわたる1週間を〈お彼岸〉と称し,この期間に寺院では彼岸会という法会を行い,信者は寺に参詣し,説法を聴聞,また墓参などをする。このような習俗はインド,中国にもみられず,日本にしかない。彼岸の語はふつうサンスクリットpāramitā(波羅蜜多)の訳〈到彼岸〉の略とされ,仏教に由来する行事とするが,太陽信仰に関係があり,〈日の願〉から〈日願(ひがん)〉になったと推定する五来重の説もある。
春秋の2月,8月(陰暦)に7日間の仏事を行うことは,806年(大同1)を最初とし,平安時代初期には恒例となっていたことが《日本後紀》《延喜式》にみえるが,この仏事が彼岸会とよばれていたかどうかは不明である。しかし《宇津保物語》《源氏物語》などに彼岸の語がみえるので,平安中期には彼岸や彼岸の仏事が定着していたことがわかる。浄土教が興隆してからは,彼岸の仏事に日想観や念仏など浄土教的なものが顕著になった。四天王寺の西門が極楽の東門に向きあっているとの信仰があり,平安末期以降,彼岸に四天王寺西門の落日を観ずる風習が盛んであったが,浄土教信者にさらに影響を与えたのは唐の善導の《観経疏》第三であった。同書には,太陽が真東から出て真西に没する春分・秋分にこそ日想観を行い,極楽往生を願うべきであることがのべられている。彼岸会は盂蘭盆(うらぼん)会とともにはやくより仏教行事となっており,その典拠なり意味づけについて今日ひろくなされている説明は,六波羅蜜の徳目(布施・持戒・忍辱(にんにく)・禅定・精進(しようじん)・智慧)を前後3日のそれぞれにあて,中日は先祖に感謝する日とし,宗教的理想に向かっての実践週間が〈お彼岸〉だとするものである。巧みな解釈ではあるが,これでは彼岸が日本独自の国民的行事になったことの説明にはならない。
民間の歳時習俗には農耕儀礼と結びついたものが多いが,民間の彼岸行事もまた農耕と関係が深い。彼岸会の民俗的基盤に注目する必要があろう。京都府宮津市付近や兵庫県の旧美囊(みのう)郡・旧加東郡などには,彼岸の間に〈日の伴〉とか〈日迎え日送り〉といって,朝は東方の,日中は南方の,夕方は西方の社寺や堂に参る行事がのこっており,原始的な太陽崇拝のなごりと考えられている。また北関東地方には寺の境内や仏堂の前に天棚(てんだな)を設け,日天・月天の木牌を立て,その周りを踊り回る天道念仏があるが,天道とは太陽のことである。また阿蘇山麓や鹿児島県薩摩地方には彼岸に山に登るところもあるが,山は祖霊のとどまるところであった。春の農耕開始にあたって,豊作に必要な太陽をまつり,祖霊の加護を祈る儀礼が彼岸に行われ,これが百万遍念仏や先祖供養と結びついて,しだいに仏教行事にくみこまれていったとみられるのである。現行の彼岸行事が例外なく墓参,先祖供養またはこれと結びついた念仏会などを内容としている要因はここにある。1948年制定の〈国民の祝日に関する法律〉では,春分の日は〈自然をたたえ,生物をいつくしむ日〉,秋分の日は〈祖先をうやまい,なくなった人々をしのぶ日〉とされている。
執筆者:伊藤 唯真 彼岸は日本独自の暦注で,具注暦にはなく仮名暦にのみ記載された。春・秋ともに7日間であるが,春分・秋分の日を中日と決めたのは1844年(天保15)の天保暦からである。それ以前は時代によってその日取りの決め方が変わっている。彼岸の語は《源氏物語》などにもでてくるが,江戸中期までは,春分・秋分の日から3日目が〈入り〉で6日目が中日であった。宝暦暦,寛政暦が採用されていた江戸中期には,春は春分前6日目,秋は秋分の前日がそれぞれ〈入り〉であった。また1844年以後は春分・秋分の計算方法を変えたので,それ以前と比べると春分は2日早く,秋分は2日ほど遅くなっている。古い文献で彼岸が8日間になっているときがあるが,これは彼岸の7日の間に没日(もつにち)という日があると,その日は正日にあらずとして数えなかったからである。
執筆者:内田 正男
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
一般に梵語(ぼんご)のパーラムpāramの訳。「川の向こう岸」の意味。こちら側の此岸(しがん)は世俗の世界であるのに対し、彼岸は宗教的理想の境地、悟りの世界を表す。釈迦(しゃか)は、現実に増水した大河を前に右往左往する人々に対して、彼岸を比喩(ひゆ)的に語る詩句を残しているところから、後世、日常の世俗を超越した境地を表現する代表語となった。大乗仏教で「完成」を意味するパーラミターpāramitā(波羅蜜(はらみつ))を「到彼岸(とうひがん)」または「度彼岸」と通俗語源解釈するのが常識となったのは、この強調である。中国では善導(ぜんどう)の二河白道(にがびゃくどう)のたとえが有名となり、浄土教の伝播(でんぱ)とともに日本での解釈の中心となり、春秋2回の彼岸会(え)の略称として用いられてもいる。
[石上善應]
第二次世界大戦前は中日を春季皇霊祭(秋季皇霊祭)とよんで皇室が先祖を祭る日であった。いまは春分の日(秋分の日)と称して国民の祝日になっている。「暑さ寒さも彼岸まで」といわれるように、快適な気温であり、寺院では彼岸会を修して読経(どきょう)や法話を行い、参詣(さんけい)する人も多い。彼岸の入り(初日)を入り彼岸・初手彼岸(そてひがん)、最終日を送り彼岸・彼岸払いなどといい、墓参りをして団子を供えたりする。兵庫県の一部では、午前は日迎えといって東に向かい、午後は日送りといって西に向いて歩く行事があり、秋田県や新潟県には、墓や丘の高みで藁火(わらび)を焚(た)いて先祖迎えをする所がある。そのほか盆の生見玉(いきみたま)と同じく、子が両親をもてなす風習の所もあり、盆行事との共通点が多い。
[井之口章次]
春分・秋分の日を挟んで前後3日ずつ、計7日の間を彼岸、初日を彼岸の入り、終日を彼岸の明け、春分の日・秋分の日を中日という。彼岸は日本独特の暦注で、元来、暦家の説にはなかった。平安時代仏家からいいだして暦に記載するようになった暦の雑節の一つである。彼岸の中日は太陽が真東から昇って真西に沈み、昼夜の長さが等しいので「時正(じしょう)」ともいう。
[渡辺敏夫]
「暑さ寒さも彼岸まで」といわれるが、これとともに、春の彼岸も秋の彼岸もこのころは風に注意が必要である。すなわち春の彼岸は「彼岸涅槃(ねはん)の石起こし」という俚諺(りげん)があるように、台風なみの暴風雨となることもあり、琵琶(びわ)湖南部で吹く比良八荒(ひらはっこう)もこの風である。秋の彼岸の入りと明けのころは、大型台風来襲の特異日である。
[根本順吉]
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出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…あの世・この世は仏教でいう彼岸・此岸に対応する語であり,その意味であの世は極楽・浄土または地獄をさす。一般にはもっと漠然と死後の世界,この世とは別の場所の意に用いられる。…
※「彼岸」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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