日本歴史地名大系 「淀城跡」の解説
淀城跡
よどじようあと
元和九年(一六二三)閏八月二〇日、松平定綱は伏見廃城に伴う京都守衛の任を負わされ、淀入部を命じられた。「徳川実紀」はこの間の経緯を、「松平越中守定綱を召れ、伏見城先年既に廃すべきに定められし事なり。伏見をのぞきては、帝都を守護せむ地、淀にまされるはなし。汝、今より淀に城築くべし。伏見の殿閣天守給はるべしと面命ありて、所領三万五千石になさる」と記す。
松平定綱が淀城を築造した地は、納所の旧淀城跡ではなく、納所の南を流れる宇治川対岸の淀島であった。新淀城の建設地について「淀下津町記録」は、「淀御城地之事、御城無之以前ニハ、河村与三右衛門先祖居住仕罷在候。然ハ元和九癸亥年御城御取立被遊候時、三代以前之与
淀城は、寛永二年(一六二五)にほぼ完成したが、宇治川と桂川、それに
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報