稲葉正邦(読み)いなば・まさくに

朝日日本歴史人物事典 「稲葉正邦」の解説

稲葉正邦

没年:明治31.7.15(1898)
生年:天保5.5.26(1834.7.2)
幕末老中。父は陸奥二本松藩(福島県)藩主丹羽長富。山城国淀藩(京都市)藩主稲葉正誼養子となり嘉永1(1848)年襲封した。文久3(1863)年京都所司代に任じられ,京都守護職松平容保と共に尊攘激派の取り締まりに当たった。その間,孝明天皇大和行幸の中止を進め,同年の8月18日の政変に際しては会津・桑名両藩兵と共に御所を警備し,政変の成功に寄与した。翌元治1(1864)年には老中に転じ,第1次長州征討に藩兵を出し,長州藩3家老の首級を実検している。慶応1(1865)年4月に老中を免じられたが,翌2年4月再任された。そして将軍徳川家茂の死去に伴う第2次征長軍の引き揚げを担当し,翌3年将軍徳川慶喜の幕府強化策として新設された国内事務総裁に任じられた。大政奉還に当たっては将軍が摂政関白を兼ねて権力を強化し,公武の別や譜代,外様の別を廃して上下両議事所を設置し,公議に基づいて国是を確立することを主張した。その後,鳥羽・伏見の戦が起こると2派に分裂した藩論を前に中立を宣言した。敗北した幕府軍が退却を重ね淀城に至ったとき,城門を閉ざしてその受け入れを拒否している。その後,江戸から上洛し妙心寺で謹慎したが,明治1(1868)年閏4月新政府側の警衛の任を与えられた。江戸城開城に際しては恭順派を支持した。翌年知藩事に任じられたが,4年廃藩置県で免官となった。17年には子爵を授けられている。<参考文献>『淀稲葉家文書』(日本史籍協会叢書)

(長井純市)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「稲葉正邦」の解説

稲葉正邦 いなば-まさくに

1834-1898 幕末-明治時代の大名,華族。
天保(てんぽう)5年5月26日生まれ。陸奥(むつ)二本松藩(福島県)藩主丹羽長富(にわ-ながとみ)の子。稲葉正誼(まさよし)の養子。嘉永(かえい)元年山城(京都府)淀(よど)藩主稲葉家12代となる。文久3年京都所司代に就任,京都守護職松平容保(かたもり)とともに尊攘(そんじょう)派に対した。老中にすすみ,国内事務総裁をかね,将軍徳川慶喜(よしのぶ)を補佐。鳥羽・伏見の戦いでは中立を宣言し,新政府軍勝利の一因となった。明治17年神道本局初代管長,子爵。明治31年7月15日死去。65歳。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「稲葉正邦」の意味・わかりやすい解説

稲葉正邦
いなばまさくに

[生]天保5(1834).陸奥,二本松
[没]1898
幕末の老中。長門守,美濃守。岩代二本松城主丹羽 (にわ) 長富の次男。のち淀藩主稲葉正誼の養嗣子となり,嘉永1 (1848) 年,襲封。文久3 (63) 年,京都所司代に就任,翌年,老中に列した。慶応3 (67) 年,内国事務総裁。老中在職中の正邦の書簡,意見書などをまとめた『淀稲葉家文書』は幕末の政局を知る好史料。

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世界大百科事典(旧版)内の稲葉正邦の言及

【神道大教】より

…神道本局を1940年に改称したもの。1875年大教院解散後,神道関係者は神道事務局を創設したが,黒住教,神道修成派等が独立していくなかで,一派独立をなしえない旧教導職が84年に稲葉正邦(1834‐98)を管長に神道本局を組織,各地に分局,支局を設置,86年以後〈神道〉の名称で独立教派の扱いを受けた。宮中三殿奉斎の神霊をまつり,〈三条教則〉を教憲となし,惟神(かんながら)の大道を拡張し神道を宣揚することを目的とした。…

※「稲葉正邦」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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