淀城下(読み)よどじようか

日本歴史地名大系 「淀城下」の解説

淀城下
よどじようか

[現在地名]伏見区淀〈池上いけがみ町・木津きづ町・下津しもつ町・しん町・本町ほんまち〉・納所のうそ町、淀〈大下津おおしもづ町・水垂みずたれ町〉の一部

淀の地は、古代・中世には京都の外港として機能した。室町時代には「淀藤岡城」が存在し、その後、豊臣秀吉の淀城下、江戸時代の淀城下として推移した。

淀はかつては木津川宇治川・桂川の三川合流地点であり、巨椋おぐら池の下流とも連なり、淀川の起点でもあった。「拾遺都名所図会」は、「京師より南の方三里にあり。顕註密勘に云く、淀はよどみをいふ。水の流もやらでとゞこほり、ぬるくとまれるなり。それを淀といふ、河淀ともよめり。此淀川といふも、桂川、鴨川、宇治川、木津川等のおちあひて深ければ、よどみぬるくながるゝなり」と、水郷であったことを伝える。およそ海抜一一メートルの低湿地帯であり、洪水に伴う地形の変容がはげしく、また水害を防ぐための河川改修がいくたびか行われて、地形は度々変更した。

「日本後紀」延暦二三年(八〇四)七月二四日条に桓武天皇の行幸を記して「幸与等津」とみえ、古くは淀津として歴史に登場する。西日本から京都へ運ばれる物資はまず淀津へ運びこまれた。「明衡往来」に「伊与国所進米、到来淀津」と記され、「新十二月往来」にも「彼運上船着淀津」とみえる。ここにいう淀津は、桂川の西岸、現在の淀水垂町・淀大下津町辺りが中心であったと推定され、桂川東岸の納所村辺りをも一部含んでいたと推定される。納所とは、淀津へ運びこまれた年貢や諸物資を保管納置する倉庫等の設置されていたところの意と考えられる。

平安時代末から鎌倉時代に入ると、淀津は単なる港津としてではなく、「淀魚市」としても知られるようになる。「兵範記」仁安三年(一一六八)八月一五日条に「昨今、淀渡舟毛三坂越庄々問男、各四五艘沙汰」とあり、問男とよばれる専門的な輸送業者まで出現していたことがわかる。また、「玉葉」文治四年(一一八八)九月一五日条に、「鳥羽南楼辺、并草津辺、依河水浅不能付船、仍於魚市乗船」とみえ、この「魚市」は淀津をさすと思われる。

降って応長元年(一三一一)七月一二日付の淀魚市次郎兵衛尉宛為替状(厳島神社反古裏経紙背文書)によれば、備後国から年貢一〇貫文を淀魚市の商人に洛中錦小路にしきこうじ(現中京区)で替銭してくれるよう依頼していることがわかるが、このことはすでに一四世紀初めに淀を通じて為替業務が行われるほど、商業がこの地で発展していたことを物語る。

この淀の魚市の位置は、納所の南西で三川合流地点中の島辺りに相当するようで、古絵図には「魚ノ市」と記された島がみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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