城郭の中枢部に建てられた多層の櫓(やぐら)建築。ヨーロッパの中世の城のキープ,ドンジョンなどと呼ばれる塔とくらべられるが,日本の天守は,城が防戦と指揮という軍事機能に加えて,城主の権威の象徴という政治機能を発揮するようになってから形式が確立したので,政治的な性格が強い。政治の拠点としての近世城郭には不可欠の要素となったが,実際は天守のない城や,計画されたが天守台だけ築いて天守は建てられない場合もあった。建てられる場所は本丸またはその中に一段高く設けられた天守曲輪(くるわ)で,外観は3層と5層が多く,まれに2層,4層がある。内部は3層の場合3階から5階,5層は5階から7階と多くの階に分かれていた。天守に付櫓が付設されて大天守,小天守と区別される場合もある。
天守のほか天主,殿守,殿主と書かれることもあり,〈天守〉の語の初見は《細川両家記》1520年(永正17)の摂津の伊丹城の記事である。〈殿主〉の語は《遺老物語》にみえ,永禄年間(1558-70)尾張の楽田城に初めて設けられ,それから各地に建てられるようになったと記されている。〈天主〉の語は《元亀二年記》の京都の二条城が初見である。信憑性のある史料で重層以上の恒久的な高櫓が確認できるのは,永禄年間の大和の多聞山城の四階櫓(《多聞院日記》)が最初である(1577年に破却)。系譜的には,中世城郭の初期から存在した井楼(せいろう)矢倉と,武家の邸宅の主屋の発達した主殿の両方の要素が考えられ,矢倉が主殿屋上に乗った楼閣から出発したとする説が有力である。それを裏付けるように,初期の天守は下層の大入母屋屋根の上に上層が乗った外観を呈し,内部に通し柱のない望楼型となっている。
本格的な天守の実態が文献,絵画,天守台遺構等から確認できる最初の例は,1579年(天正7)に完成した織田信長の安土城である。以来信長の武将は各地に天守付きの城郭を築き,85年豊臣秀吉の大坂城天守の出現を見る。現存天守は津軽弘前城,信濃松本城,越前丸岡城,尾張犬山城,近江彦根城,播磨姫路城,備中松山城,出雲松江城,伊予松山城,伊予宇和島城,讃岐丸亀城,土佐高知城の12城である。そのうち最古は天正年間(1573-92)説の有力な丸岡城だが,犬山城は下部が1537年(天文6)とされ,いずれも初期の望楼型の特徴をよく残している。慶長年間(1596-1615)に上層部分が大きくなり,下層から上層まで一体の層塔型が出現し,1612年の名古屋城以下,近世城郭の天守はこの形を踏襲した。
→城
執筆者:村田 修三
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… 1600年代に入ると建築や美術の数もましてくる。彦根城,姫路城のような桃山天守建築が出現する。障壁画の分野では,当時における金銀の産出量の増加を反映して,金銀の箔や泥をより豊富に用いる傾向が見られ,障壁画は文字どおり黄金時代に入ったかの感がある。…
…【村田 修三】
【近世】
近世城郭の先駆となったのは,松永久秀が奈良の佐保丘陵に築いた多聞(たもん)城(多聞山城)と,織田信長が上洛を果たし,将軍足利義昭のために築いた二条邸,そして1576年(天正4)みずからの居城として築いた安土城である。近世城郭の特徴となる石垣と,その上に建つ白漆喰(しつくい)塗籠建物はすでに多聞城にあり,天守(主)閣は安土城において初めてつくられた。しかしこれらの城は,短期間存在しただけで破壊される。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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