清田村(読み)せいだむら

日本歴史地名大系 「清田村」の解説

清田村
せいだむら

[現在地名]大東町清田

新庄しんじよう村の南、あか川の支流清田川中流域に位置する。建武四年(一三三七)六月二日の山名時氏寄進状写(出雲土屋家古記録抄)に「大東庄清田」とみえ、南朝方退治のため大原郡一宮勝田かた(現加多神社)に寄進している。正保国絵図に村名がみえる。元禄十年出雲国郷帳によると高二四五石余、寛文四年(一六六四)の本田高二四三石余。「雲陽大数録」によれば高一九〇石。「郡村誌」によると戸数五四(うち社二・寺一)・人数二二九、民業は農業五〇戸、物産は生人参六一五貫目・生茶一〇〇貫目・桐油実六〇石・薪三千貫目。かのと西利太せりた神社は「出雲国風土記」大原郡にみえる世裡陀社、「延喜式」神名帳にみえる大原郡の西利太神社に比定される。

清田村
せいだむら

[現在地名]京北町大字下弓削しもゆげ 清田

弓削一一ヵ村の一。大堰おおい川の支流弓削川の左岸、丹波路に沿う山間集落。北は下中しもなか村、南は井崎いざき村、西は川を隔てて矢谷やたに村、東は狭間はざま峠を越すと山国やまぐにとう村。集落東の山麓狭間谷はざまだに古墳群がある。

慶長七年(一六〇二)幕府領、寛文四年(一六六四)より丹波篠山藩領となる。

清田村
せいだむら

[現在地名]蒲郡市清田町

坂本さかもと村の南東にある。「静里村誌」に「往古真清田大明神アリ。故ニ神号を上略シテ清田村ト称ス」と伝えている。慶長一七年(一六一二)松平清昌の保内領五千石のうちで、村高は六九四石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報