日本歴史地名大系 「渡田村」の解説 渡田村わたりだむら 神奈川県:川崎市川崎区渡田村[現在地名]川崎区渡田東(わたりだひがし)町・田島(たじま)町・渡田新(わたりだしん)町一―三丁目・渡田向(わたりだむかい)町・渡田山王(わたりださんのう)町・渡田一―四丁目・鋼管通(こうかんどおり)一―五丁目南は海に面し、東は大島(おおしま)村、南西は小田(おだ)村に接する磯方の村。中瀬耕地(なかぜこうち)・釜淵(かまがふち)などの小字がある。二(に)ヶ領(りよう)用水を利用。田園簿に村名がみえる。「風土記稿」はかつては「亘田」と記したとする。近世を通し幕府直轄領。川崎宿の定助郷を勤め、享保三年(一七一八)の助郷高は七九七石(「川崎宿助郷帳」森文書)。延享四年(一七四七)の稲毛川崎用水通田反別堰々諸色人足一件(横浜市添田文書)によれば田六二町二反余、畑三〇町一反余。 渡田村わたりだむら 鹿児島県:大口市渡田村[現在地名]大口市小木原(こぎはら)小木原村の南、羽月(はつき)川と牛尾(うしお)川に挟まれた現春村(はるむら)地区一帯にあたるとみられる(大口市郷土誌)。村名は「わただ」ともよんだらしい。寛正六年(一四六五)一一月一五日の牛山院坪付(田代家文書写)には、「和多田中ノ村門」の「いゝふし」「榎木の本」など九ヵ所の計二町九反二〇、「和多田道之門」の「中かハら」「いちた」など七ヵ所の計一町四反二〇などが田代肥前(清定)に宛行われている。この「和多田」も当地をさすか。近世には伊佐郡大口郷に属した。寛文四年(一六六四)の郡村高辻帳に村名がみえ、高八八石余。「三州御治世要覧」によれば延享(一七四四―四八)頃の高六石余とあるが、「但本文百ノ字落ルカ」との注記があり、一〇六石余の間違いであろうか。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by