湯江村(読み)ゆえむら

日本歴史地名大系 「湯江村」の解説

湯江村
ゆえむら

[現在地名]有明町湯江

現有明町域の北西部側を占める。北東部は海(有明海)に臨み、湯江川や栗谷くりや川などが注ぐ。地内に戸切とぎり神木じんぎ池田いけだ沖之尾おきのお温泉屋敷おんせんやしき釘崎くぎざき城之尾じようのお舞人堂まいにんどう庄司屋敷しようじやしきなどがある。釘崎名の庄司屋敷には宇多天皇の子が豊前宇佐宮に寄進した庄園の庄司の屋敷があったと伝える。近世の庄屋の菅氏は菅原道真の子孫で、代々その庄司職を継承してきたといわれ、屋敷地の一角に往時の石垣・井戸が残される。温泉屋敷は温泉山満明まんみよう(現小浜町)別院の僧房跡とされる。

建武五年(一三三八)二月九日の一色道猷宛行状(深堀文書)に「温江大野田崎村」とみえ、村内の孫次郎入道・同四郎・同小次郎跡の田地九町などが勲功の賞として深堀政綱に与えられており、三月には施行状が出ている(同月一七日「小俣道剰施行状」同文書)。政綱が当地に引取のため赴くと、湯江弥次郎が異議を申立てたが、証拠書類を提出しなかったため暦応二年(一三三九)政綱に引渡すよう命じられている(同年八月二七日「一色道猷書下」同文書)。このように北朝方の勢力が浸透していたが、正平八年(一三五三)二月の筑前針摺はりすり(現福岡県筑紫野市)での合戦で一色道猷が菊池武光に大敗するに伴い南朝勢力が優勢となり、同九年八月には征西将軍宮方の菊池武澄が島原半島に渡っており、これに応じた有馬澄明は八月二三日に「湯江村」に軍を進め、同月二四日の多比良たいら(現国見町)攻撃に加わっている(同年九月一二日「有馬澄明軍忠状」有馬文書)。応安七年(一三七四)七月には今川満範の催促に応じた式見兼綱の軍勢が「温江」などを攻撃している(同八年二月日「式見兼綱軍忠状」同文書など)。釘崎名に中世の城跡とされる遺構があり、城之尾の地名が残る。


湯江村
ゆえむら

[現在地名]高来町神津倉名こうづくらみよう三部壱名さんぶいちみよう里名さとみよう泉名いずみみよう町名まちみよう法川名のりがわみよう黒崎名くろさきみよう小峰名こみねみよう善住寺名ぜんじゆうじみよう東平原名ひがしひらばるみよう

現高来町域の北東部に位置し、村の南東部でさかい川が有明海に注ぐ。小峰名の北部にある烽火ほうか山は古代の烽の置かれた地であるとされ、烽火山の付近に狼煙竈遺構という石組が残る。近世にも狼煙場が設置されていた。正和四年(一三一五)五月二七日の鎮西探題裁許状(河上神社文書)に「高木温江小二郎種頼」がみえ、当地を拠点とする者と推定される。種頼は肥前一宮の河上かわかみ(現佐賀県大和町)の造営用途町別七〇〇文(計二〇余貫文)を納めておらず、同社雑掌に訴えられ、究済を命じられている。暦応二年(一三三九)および同三年九州探題の一色道猷より江浦六郎次郎入道らが「高来郡温江大野田崎村」などの地頭職を深堀政綱に沙汰付けするよう命じられている(同二年八月二七日・同三年五月四日「一色道猷書下」深堀文書)。ただしこの温江はオエと読み、小江おえの可能性があり、湯江としても現有明ありあけ町の湯江とも考えられる。元亀二年(一五七一)五月「湯江村」の太郎次郎ら三人が伊勢参宮に赴き、その折に為替をくんだ分(二人が四匁宛、一人が三匁)は、国元に帰って伊佐早上いさはやかみ(現諫早市)の源左衛門尉に払込まれている(「肥前国藤津郡彼杵郡高来郡旦那証文」宮後三頭太夫文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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