日本歴史地名大系 「漆野村」の解説 漆野村うるしのむら 兵庫県:佐用郡南光町漆野村[現在地名]南光町漆野宍粟郡に属し、佐用郡平松(ひらまつ)村の北、千種(ちくさ)川上流域の屈曲部に形成された丘陵と後背山地に立地。右岸に漆野、左岸に段(だん)の集落がある。慶長国絵図の「志之村」にあたるか。江戸期の領主の変遷は慶安二年(一六四九)まで林崎(はやしさき)村に同じ。その後延享元年(一七四四)大坂城代堀田正亮(出羽山形藩)領(「天保校訂紀氏雑録」日産厚生会佐倉厚生園蔵)、同三年幕府領(「寛政重修諸家譜」など)、明和六年(一七六九)尼崎藩領と変遷(「桜井家譜」東京大学史料編纂所蔵)、文政一一年(一八二八)幕府領となり幕末に至る(「領地替之記録」岡本家文書)。 漆野村うるしのむら 山形県:最上郡金山町漆野村[現在地名]金山町漆野飛森(とびのもり)村枝郷春木(はるき)村の東、中田春木(なかだはるき)川の流域にある。新田本村鑑によれば、当村の庄屋を勤めた高橋杢右衛門の祖が享保八年(一七二三)出羽仙北(せんぼく)より移り飛森村地内であった当地の開発に着手、同八年別村となったという。「増訂最上郡史」は開発年次を宝永八年(一七一一)とし、高橋家の祖はもと渡辺を名乗り会津家中であったという。なお吉村本村鑑などは享保九年の分村とする。明和三年(一七六六)には高二七石余、うち田方二二石余、反別四町二反余、うち田方三町六反余(吉村本村鑑)、文政一〇年(一八二七)の新庄領総高控によると竈数一二・人数六五、駄馬四・駒四。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by