瀬利覚村(読み)じつきよむら

日本歴史地名大系 「瀬利覚村」の解説

瀬利覚村
じつきよむら

[現在地名]与論町立長りつちよう麦屋むぎや ぐすく

与論島の西部茶花ちやはな村の南西に位置し、西部は半島状をなし、北にチチヒナ離、南にフンチュ崎がある。地名のジッキョは湧出る清水の意とされる。地内に幸名波こうなは屋舎やじや供利とうむい伊波いば大水うぷみじなどの地名がある。永楽三年(一四〇五)琉球北山王の怕尼芝の三男王舅が世之主として来島、与論城を築城したと伝える。同城跡の西側の湾岸部では風葬や崖葬が行われていた。大水間切のうちで、その役所が置かれていた。正保琉球国絵図に村名の記載はないが、北に「かね崎」「こてはずの浜」とあるほか、南の入江辺りに「大船出入なし」とあり、供利と茶泊ちやどうまいと推定されるが、これらには多少なりとも港津の機能があったことが知られる。


瀬利覚村
じーつきよむら

[現在地名]知名瀬利覚せりかく

知名じんにや村の北東に位置し、集落ふう山の南麓隆起珊瑚礁の段丘斜面に形成される。地名のジーッキョは地下の川という意で、集落中央部の陥没地に地下水が湧出している。中世にホービャガルミという豪族がいたと伝え、南西部の小米ふぐみの段丘上には当村のノロと琉球王の間に生れたという世の金を祀った向田むくだ神社がある。シニグ祭には各集落のヒャー(豪族)が一隊を引連れ、集落内のシングドーから後方台地のマチシニグイを経由して大山のヒガヤマサキに集まり、祭祀を行っていたという。初め大城ふうぐすく間切、安政四年(一八五七)からひがし方に属した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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