瀬川宿(読み)せがわしゆく

日本歴史地名大系 「瀬川宿」の解説

瀬川宿
せがわしゆく

[現在地名]箕面市瀬川二丁目・半町二丁目

市域の南西端、西国街道(山崎通)が箕面川に接する辺りに位置した宿駅。古くには「瀬河」と書かれる場合が多い。

〔中世〕

久寿二年(一一五五)に箕面寺(のちの瀧安寺)で書写された大門寺一切経のうちの雑阿含経(古屋幸太郎氏蔵)の奥書に「世川村僧良芳□□□成往生極楽所書写也」とある「世川村」は、その初見か。宝治三年(一二四九)三月七日の勝尾かつお寺般若会の記録に、山田やまだ(現吹田市)の全王、萱野かやのの乙王とともに、「瀬河」の千福という舞呪(舞童)の名がみえる(「勝尾寺毎年出来大小事等目録」勝尾寺文書)

元弘の乱に際して、瀬川は西国街道の軍事的要衝となり、赤松円心の軍と六波羅勢の間に瀬川合戦が展開された。播磨で蜂起して摂津摩耶まや(現神戸市灘区)から川辺かわべ郡の久々智くくち酒部さかべ(現兵庫県尼崎市)小屋野こやの宿(現同県伊丹市)に進出した赤松軍に対して、小田常陸前司時朝(時知)の率いる六波羅の軍勢は、元弘三年(一三三三)三月一〇日、瀬川に着陣(「太平記」巻八摩耶合戦事付酒部瀬河合戦事)同日、六波羅方の将時朝は、勝尾寺衆徒らに赤松円心追討の六波羅御教書を送り、来る一二日に寺僧を瀬川宿に動員して赤松勢と戦うことを命じている(正慶二年三月一〇日「前常陸介時朝施行状」勝尾寺文書)。瀬川合戦は三月一一日、「瀬河ノ宿ノ東西ニ、家々ノ旗二三百流、梢ノ風ニ翻シ」「宿ノ南北三十余町ニ、沓ノ子ヲ打タル様ニ引ヘタル敵」に攻めかかった赤松勢は、たちまち六波羅勢を京へ敗走させ、手負・生捕りの首三〇〇余を瀬川の宿河原に切り懸けさせたという(「太平記」同前)。勝尾寺もやがて六波羅に背いて、赤松方の二条殿法印(殿法印良忠)の手の者、渡辺源内左衛門尉覚に兵粮米二〇俵を送ったが、受渡し場所は瀬川宿であった(元弘三年七月日「勝尾寺住侶等申状案」勝尾寺文書)。合戦のとき後方の宿駅に兵粮米が集められたのである。建武三年(一三三六)二月にも、新田・足利両軍の合戦が行われた。同月一〇日、兵庫ひようご(現神戸市兵庫区)を出て都に攻め上ろうとした尊氏の軍勢は、一一日に瀬川河原で義貞軍と合戦したが形勢不利となり、赤松円心の勧めで尊氏はいったん西国へ下って再挙を図ることとなり、その日の夜半に瀬川の陣を退いて、兵庫に入ったという(梅松論)。「太平記」ではこのときの戦いを「豊島河原合戦」とよんでいる(巻一五)

応安四年(一三七一)二月、九州探題に任じられた今川了俊は、二月二一日に山崎やまさき(現三島郡島本町)を発って西国街道を西へ向かったが、当地や「小屋野」(昆陽野)などの民衆が思うこともなくのんびりと見物している姿をみて、「今はうらやましくおぼゆ」とその紀行に記した(道ゆきぶり)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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