物集女村(読み)もずめむら

日本歴史地名大系 「物集女村」の解説

物集女村
もずめむら

[現在地名]向日市物集女町

向日丘陵東麓の台地に位置し、現向日市北端の集落。東は川島かわしま(現京都市西京区)寺戸てらど村、南も寺戸村、北は樫原かたぎはら(西京区)寺戸村で西国街道から分れ、樫原で山陰街道に結ぶ街道は物集女街道とよばれ、村内を縦貫する。

和名抄」は物集郷の名称を伝える。「日本後紀」弘仁六年(八一五)六月二四日条に「山城国乙訓郡物集もす国背くせ両郷雷風」と、大蛇を殺した祟りによる雷風を伝える。次いで承和七年(八四〇)五月一三日には、淳和天皇の火葬が「物集村」で行われた(続日本後紀)。物集村の初見である。天皇は死に先立ち、人々を煩わすことなく薄葬とし、送葬の時刻も人に見られないため夜を希望し、また塚墓を存して鬼物にとりつかれ、怨霊とならないために「宜骨為粉、散之山中(「続日本後紀」同年五月六日条)遺詔。これに従って骨は砕粉して大原野西山嶺上に散らした(同月一三日条)。火葬跡は空堀をめぐらした方墳として残される。なお物集女街道に面する車塚は天皇の柩車を納めた所との伝承があるが、もとよりこれは古墳である。

物集女庄は当村を中心地とするが、同庄に鳥羽天皇の第五皇子仁和寺覚性法親王が紫金台しこんだい寺を建立して籠居したことがあり、「仁和寺諸堂記」(仁治三年奥書)に「紫金台寺 此御堂、初者被西山物集庄、其後被此寺内境了、伝当院御建立、五宮紫金台寺御号」と記す。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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