寺戸村(読み)てらどむら

日本歴史地名大系 「寺戸村」の解説

寺戸村
てらどむら

[現在地名]向日市寺戸町

現向日市中央部に位置する。南は西土川にしつちかわ村・白井しらい村・向日町むこうまち、西は上里かみざと(現京都市西京区)物集女もずめ村。村内で西国街道から物集女街道が分岐する。

「小右記」寛仁三年(一〇一九)七月二〇日条に「阿波介厶姓為時云者、有膂力之聞、住山城国寺戸云処」と、相撲人阿波介為時の住所として地名がみえる。延久四年(一〇七二)九月五日付の太政官牒(石清水文書)には、延久の荘園整理令によって停止された石清水いわしみず八幡宮寺領荘園一三ヵ所のうちに「壱処 寺戸・蝦手井両処 乙訓郡」とみえ、公験によって立券された荘園ではないが、住人らが権現御灯油を奉仕するため備えた所としている。また「今昔物語集」巻二七(左京ノ属ノ邦ノ利延値迷神語)には「三条ノ院ノ天皇ノ御時ニ、石清水ノ行幸有ケルニ、左京ノ属、邦ノ利延ト云フ者供奉シテ仕タリケルニ、九条ニテ可留カリケルヲ、何ニ思ケルニカ、長岳ノ寺戸ト云フ所マデ行ニケリ」とみえ、「迷ハシ神」にあって山崎やまざき(現乙訓郡大山崎町)まで行きつけず、「寺戸ノ西ノ方ナル板屋堂ノのきニ下居テ、夜ヲ明シ」たという話を載せている。寺戸の西の丘陵中腹には白鳳期以来願徳がんとく(のち宝菩提院)があった。右の板屋堂とは願徳寺の一堂か。また長岳(岡)とは向日丘陵をさすと思われる。

鎌倉時代の、年未詳三月七日付藤原氏女書状(三鈷寺文書)には「てらとのかう(郷)のうち、かえて(鶏冠井)の里卅のつほ」とみえる。乙訓おとくに郡条里では、三〇坪は東北隅より二列目北端にあるが、鶏冠井かいで里の一部が中世の寺戸郷であったことがわかる。また応永七年(一四〇〇)の三鈷寺当知行山城国寺領目録(同文書)では「寺戸内参町此内壱所在土川内」とみえる。当村東南端付近は西土川村と入り組んでいたのであろう。一方、住民の周辺諸荘への出作も盛んであった。上久世かみくぜ(現京都市南区)には、寺戸小畠出作の未進年貢夫役に関する応永一四年六月二日付の請文(東寺百合文書)などの例があり、文正元年(一四六六)の下久世荘年貢米未進徴符(教王護国寺文書)には「他所分」として寺戸与二郎・寺戸梅林庵・寺戸蔵春庵・寺戸道浄・寺戸両堂がみえる。


寺戸村
てらどむら

[現在地名]広陵町大字寺戸

大野おおの村の南、馬見うまみ丘陵東部、乙女山おとめやま古墳東南部に位置する。寺戸は広湍ひろせ(広瀬)寺の所在を示す村名である。延久二年(一〇七〇)の興福寺雑役免帳によると広湍寺が広瀬郡内に存在することがわかる。当村には、蓮池はすいけ堂前どうまえ寺代てらしろなどの小字が遺存し、奈良朝の古瓦が出土する。三箇院家抄(内閣文庫蔵大乗院文書)には「寺戸村庄」と記す。

文禄検地による村高は五〇〇・八石。


寺戸村
てらどむら

[現在地名]井原市西江原町にしえばらちよう 寺戸

西江原村の西にあり、西辺を小田おだ川が南西流する。西は井原村。文政一三年(一八三〇)の後月郡村様子書(安井文書)には「元、西江原村より相分候由ニ而田畑人家共一円に西江原村入会有之村境分りかたし」とある。寛永備中国絵図では山崎家治先知とみえ、高八八石余。以降の領主変遷下出部しもいずえ村に同じであったと考えられる。延宝五年(一六七七)検地帳(後月郡誌)には古検有畝六町五反余とあり、田方三町九反余・分米四八石余、畑方二町九反余・分米二〇石余、屋敷一反余・分米一石余。前掲様子書では田反別三町九反余のうち三町二反余が両毛作で、家数六・人数二四、牛四。


寺戸村
てらどむら

[現在地名]黒滝村大字寺戸

黒滝川とわき川の合流地に立地。文禄五年(一五九六)二月の竹役催課状(楠山家文書)には「クロタキカウノ内テラト」とみえる。「寺堂村」(慶長郷帳)、「寺道村」(元和郷帳)とも書かれた。黒滝郷のうち。慶長郷帳の村高は一三七・二五二石。のち延宝検地で一五〇・〇五七石となった。

村内の遍照へんじよう(浄土真宗本願寺派)は古くは禅宗または真言宗か。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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