出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例
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光勝寺
こうしようじ
[現在地名]延岡市中央通
五ヶ瀬川と大瀬川に挟まれた中洲東部にある。小林山と号し、真宗大谷派。本尊阿弥陀如来。慶長三年(一五九八)正順の創建。初め現北町三福寺付近にあった。二世永伝は慶長五年関ヶ原合戦の余波を受けた宮崎城攻防戦で討死した高橋氏重臣宮崎城守将権藤種盛の遺児で、戦禍を逃れて諸国を回り、のち出家していたのを同一九年有馬直純に見いだされて当寺二世を継いだという。
光勝寺
こうしようじ
[現在地名]三珠町上野
駿州往還の旧道に沿い、芦川の清流を前にして建つ。市瀬山と号し、高野山真言宗。本尊千手観音。承久二年(一二二〇)宥教の開基と伝える。甲斐源氏武田氏一族は源頼朝に仕え、相模・駿河・伊豆への往来の途次に当寺に立寄って、本尊観音菩薩に武運長久を祈願、武田信光は山林五町を寄進したという(寺記)。承久年間から九代の住職の位牌を伝え、元亨年中(一三二一―二四)後醍醐天皇の勅願寺となったという(甲斐国志)。平塩寺の過去帳に薬王寺の正寿丸、光勝寺の良寿丸や光勝寺別当権大僧都の名がみえるという(同書)。盛時には竜花院・多聞院・大王院・宝積院・成就院の塔頭五院を有した。
光勝寺
こうしようじ
[現在地名]住田町世田米 鉢ヶ森
世田米の東の町裏にあたる鉢ヶ森にある。貴宝山と号し、真言宗智山派。本尊は阿弥陀如来。寺伝によれば承安年中(一一七一―七五)川向の野尻金山などの隆盛時に金山掘子のために創建された阿弥陀堂が始まりとされる。その後金山衰退により廃絶。旧寺地には寺の沢の地名が残る。慶長元年(一五九六)川向の気仙川端に再建されたが、寛永四年(一六二七)洪水のため流失。翌年南東対岸の現在地に再興され、このとき本堂と八幡社殿も建立されたという。初め光照寺と称していたが(元禄一一年「気仙郡古記」など)、高田村光照寺(現陸前高田市)と紛らわしいため、安永二年(一七七三)からの領内寺院書上の折、現寺名に改めた。
光勝寺
こうしようじ
[現在地名]小城町大字松尾字松尾
祇園川上流の山麓の西方にある。松尾山と号し、本尊は十界曼荼羅。日蓮宗の鎮西本山である。
由緒記によれば、下総国主千葉胤貞が、正和五年(一三一六)九州の探題として下向した時、下総国中山法華経寺(現千葉県市川市)三代貫首日祐を鎮西の総導師として伴った。日祐は夷敵退治の祈祷を行い、祈祷所として、文保年中(一三一七―一九)に一宇を建立し、西海道法華宗門の最初の霊場、九州法華宗門の大本寺としたという。
光勝寺
こうしようじ
[現在地名]石鳥谷町五大堂
北上川東岸の丘陵上にあり、南を添市川が西流する。貴峰山と号し、真言宗豊山派。本尊五大尊明王を祀るため五大堂と通称される。寺伝によれば、承和三年(八三六)慈覚大師の創建とも、知空の開基とも中興ともいい確定しない(石鳥谷町史)。また光勝寺の寺名は南部光行の光と、戦勝の勝をあてた名称と伝える。「邦内郷村志」に「旧寺 自光勝寺在東北山上旧基略見」とあり、背後の山に古代寺院跡と思われる礎石が残る。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
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