玉取村
たまとりむら
[現在地名]大穂町玉取
大曾根村の東南、筑波稲敷台地東縁辺に立地。村域には縄文中期の土器が出土した玉取遺跡、縄文中期の土器・土師器が出土した寺山遺跡、石棒が出土した谷津遺跡、円墳一〇基からなり、円筒埴輪・形象埴輪・土師器が出土した玉取古墳群などが確認されている。
康永三年(一三四四)二月の別府太郎幸実軍忠目安(「後鑑」所収集古文書)に「同十一月十八日至小田城降参之期、役所警固、同十二月三日立玉取御発向関城之時、御共仕畢」とあり、高師冬の小田城(現筑波町)進攻路にあたっていた。
玉取村
たまとりむら
[現在地名]岡部町玉取
宮島村の北に位置し、朝比奈川の最上流域に立地する。北は同川を境に安倍郡。元亀三年(一五七二)六月八日の武田家朱印状(朝比奈文書)によると、武田氏は朝比奈孫左衛門が知行する玉執・近又・三野など四郷の普請人足役二九人分を免除している。近又・三野は近世には当村内の小地名となる(駿河記)。慶長九年(一六〇四)の山西志太郡朝比奈之内玉取御縄打水帳(勝山家文書)が残る。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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