玉名庄(読み)たまなのしよう

日本歴史地名大系 「玉名庄」の解説

玉名庄
たまなのしよう

現玉名市東部の菊池川左岸の小田おだしも津留つる安楽寺あんらくじ付近にあった太宰府安楽寺領荘園。安楽寺庄と同一荘園と思われる。津留にある梅林ばいりん天満宮(津留菅原神社)は当庄の荘鎮守であったと推定され、正暦三年(九九二)一二月四日の託宣で、肥後守であった平惟仲が玉井名たまいな合志こうしの両庄を安楽寺領としたという(天満宮託宣記)。鎌倉末頃にまとめられた安楽寺草創日記(太宰府神社文書)によると、万寿二年(一〇二五)後一条天皇の御願で建てられた安楽寺西法華堂に「玉名庄百十町」が寄進され、三昧六口灯油三斗六升代米七石二斗が玉名庄正富名役とされ、また延久四年(一〇七二)別当基円建立の食堂の修理料を出す八荘のうちに玉名庄がみえる。


玉名庄
たまなのしよう

現玉名市北東部の石貫いしぬき地区など菊池川右岸寄りの地域から現玉名郡菊水きくすい町・三加和みかわ町にまたがっていたと考えられ、中世の玉名東郷大部分と玉名西郷の一部を占めた仁和寺領荘園。のちには東郷とうごう庄ともよばれた(西郷庄の呼称はない)。建久三年(一一九二)八月二七日の守覚法親王御教書(仁和寺文書)に「仏母院玉名庄」とみえるが、その前身山鹿やまが庄の一部として、一一世紀末にはすでに存在していたと思われる。同庄は寛治六年(一〇九二)白河院領として立券され、永長二年(一〇九七)には醍醐無量光だいごむりようこう院領に寄せられたが、当初から玉名東西・山鹿南北両郷に及んでおり、永長二年の立券状では山鹿南北二郷八二一町六反三六歩、玉名東西二郷四三四町八反であったという(寺家雑筆至要抄)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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