玉城間切
たまぐすくまぎり
現玉城村域全域にあたる。北は大里間切・佐敷間切、東は知念間切、西は具志頭間切に接し、南は海に臨む。島尻方一五間切の一。里積記によると首里城から当山村間切番所まで二里五合四勺一才(二里一九町余)。絵図郷村帳には当間切に属する「めとろま村」「大城村」「いなふく村」(現大里村)、「舟越村」「糸数村」「当屋真村」「玉城村」「わな村」「百那村」「あふ島村」「しけんはる村」「中やま村」「あたん口村」「嶺村」「下百名村」の一五ヵ村が載る。一七世紀の間切境の変更により「めとろま」「大城」「いなふく」の三ヵ村は大里間切へ移管となった。「琉球国由来記」には和名・垣花・仲村渠・百名・玉城・中栄間(のち仲栄真)・奥武・志堅原・富里・当山・屋嘉部・糸数・富名腰・前川の一四ヵ村がみえる。なお前出「あたん口」・嶺・下百名の三ヵ村は享保二一年(一七三六)には「当時無之」と注記されていた。間切集成図では前川・和名の両村はみえず、前川村のところには識名村があり、合せて一三ヵ村である。正保国絵図では「玉城間切」とあり、高一千三六九石余。琉球国高究帳・寛文八年(一六六八)の琉球国郷帳でも同高。内訳は琉球国高究帳では田一千二〇石余・畠三四八石余、寛文八年郷帳では田一千二〇石余・畠三二二石余・桑役二五石余。正保国絵図・正保三年絵図帳写によると、首里城を東に出た島尻方東海道は、南風原間切を通り、島添大里間切「よなはる村」(現与那原町)に出て、佐敷間切佐敷村(現佐敷町)の一里山、知念間切知名村の一里山、同間切知念村の一里山を経て、「あときせ」(現知念村アドキ島)の見える辺りから内側へ向きを変え、当間切に至る。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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