デジタル大辞泉
「川村」の意味・読み・例文・類語
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出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例
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川
村
かわといむら
[現在地名]南陽市川樋
中川盆地の中心集落で、南は新田村。標高二九〇メートルで、赤湯村より八〇メートル高い。盆地中ほどを前川が北流する。集落は西側山麓の崖錐状の地形に立地し、前面低地は泥炭層が埋積しており開田には困難が伴った。天保郷帳には河樋村とある。伊達輝宗日記(伊達家文書)天正二年(一五七四)二月二八日条に「山かたよりひきやく参候、川といよりのいけとりかへされ候、あくとうなる沢より参候を、同せいはい候との到来候」とある。同一三年の北条段銭帳によると、粟野かけ由が「北条かいとひ仁まん五千仁百苅役ニ御段銭六〆三百文」を納めている。「米沢事跡考」によれば、当村の野中館(粟野氏館)は四町四方の塁で、中納言山隆一二世の孫粟野次郎藤原義広の後胤粟野十郎左衛門尉宗次の父の隠館であると記している。
川村
くしかわむら
[現在地名]敦賀市櫛川・平和町・永大町
気比松原に連なる浜堤の西南端に位置し、東は今浜村・鋳物師村、南は広い田地を挟んで木崎村、北は敦賀湾に臨む。「太平記」巻一八(瓜生挙旗事)に建武三年(一三三六)一一月二日のこととして「朝暖ニ、櫛川ノ嶋崎ヨリ金崎ヲ差テ游者アリ、(中略)亘理新左衛門ト云ケル者、吉野ノ帝ヨリ被
成タル綸旨ヲ、髻ニハ結付テ游グニテゾ有ケル」とみえる。観応元年(一三五〇)八月一九日付山内重経田地売券(西福寺文書)に「野坂庄内櫛川郷」とあり、野坂庄に含まれていた。
川村
あしがわむら
面積:三七・一五平方キロ
郡の南端、御坂山地の中央に位置し、東の黒岳(一七九二・七メートル)から北側は御坂町・八代町・境川村、南側は南都留郡河口湖町・足和田村に接し、西は中道町と西八代郡上九一色村と境する。黒岳を水源として西に流れる芦川の北側に集落と耕地が集まる。山腹を切開いた耕地は石垣によって美しい景観をつくる。県道八代―芦川―三珠線が上九一色村から当地を通り、鳥坂トンネルを抜けて八代町に至る。
中世の若彦路は鳥坂峠を越え上芦川に達し、さらに南の大石峠を越え都留郡大石(現河口湖町)に至り、駿河に通じていた。甲斐と駿河を結ぶ主要古道の一つである。
川村
つじかわむら
[現在地名]福崎町西田原
北野村の西、市川左岸に位置する。神東郡に属し、西は市川を隔てて神西郡山崎村。生野街道が通る。中世には田原庄に含まれ、有井村とよばれたようで、当地に在井堂がある。「峯相記」の妙徳寺(妙徳山神積寺)の由緒の項に「田原ノ庄有井村」とみえ、正暦二年(九九一)三月八日、大納言藤原範郷の子慶芳内供が西国巡礼の際に同村に宿泊したという。なお正応四年(一二九一)八月日の田原庄実検注進状(九条家文書)には庄内里寺一三ヵ寺の一つとして有井寺があり、その仏神田六反四〇代が除田とされている。
川村
しよくかわむら
[現在地名]五所川原市 岩木町・川端町・新町・本町、寺町の一部
岩木川下流右岸に位置し、東は十川を境に吹畑村、南は五所川原村、北は平井村に接する。
寛文四年(一六六四)の高辻帳に四五〇・八石とあり、貞享元年(一六八四)の郷村帳に新田として二七九石とある。同四年の検地帳は支村平井村・柏原村を含めない田方三八町八反六畝八歩、屋敷を除いた畑方二三町一反七畝一六歩、田畑屋敷合せて六三町二反二畝、村高四〇九・九七六石、郷蔵屋敷、漆木七本を記す。村名は享和三年(一八〇三)の陸奥国津軽郡村仮名付帳(市立弘前図書館蔵)に「シヨクカハ」、「新撰陸奥国誌」に「シヨフクカハ」とあり、一般には「しょっかわ」ともよばれた。
川村
たるかわむら
[現在地名]石狩市樽川・樽川三条・樽川四条・樽川五条・樽川六条・樽川七条・樽川八条・樽川九条・花川南二条・花川南三条・花川南四条・花川南五条・花川南六条・花川南七条・花川南八条・花川南九条・花川南十条・新港中央・新港西、後志支庁小樽市銭函
明治一五年(一八八二)から同三五年までの村。石狩郡の最西端部に位置し、札幌郡と小樽郡に接する。近世には「ヲタルナイ」と記録されている地域の臨海部を含む。開拓は明治一三年に始まり、同一五年二月村名が付された。同一八年山口県団体四三戸・一八九人が移住し原野を開いた。
川村
くずかわむら
[現在地名]平賀町葛川
浅瀬石川に南から切明川が合流した地点の本流右岸にあり、上流は切明村、下流は沖浦村(現黒石市)。
元禄年間(一六八八―一七〇四)葛川新田として開かれ、享保年間(一七一六―三六)まで折戸村と称し、また高町ともいったという。藩政期には黒石領であったが、経済的には山道を琵琶ノ平から小国村へ出、さらに唐竹村・柏木町村のいわゆる国中へ出てまかなった。慶応四年(一八六八)の戊辰戦争に際し、南部軍が秋田藩の大館城(現秋田県大館市)を攻め、大館周辺の住民は山を越えて切明・葛川へ避難し、黒石藩兵も村に駐屯して大騒動となった。
明治初年の「新撰陸奥国誌」に「深山の中浅瀬石川の側にあり。
川村
くずかわむら
[現在地名]中仙町豊川 葛川
玉川支流小滝川沿岸の平坦地にあり、南は柏木田新田村、東は野中村、西と北は下桜田新田村・桜田村と接する。
正保四年(一六四七)の出羽一国絵図に一〇四石で、新田と記されるが、享保一六年(一七三一)の御判物御国絵図御用留書(県立秋田図書館蔵)によれば正保の絵図は村数四七五ヵ村で表高の二〇万石にあわせ「其余之村高ハ何新田村と致候分、弐百参拾弐ケ村有之候、其内百七拾五ケ村ハ実ハ古田郷ニ候」とあり、享保一四年の黒印高帳(秋田県庁蔵)にも本田高がほとんどであるから新田村ではなかった。「六郡郡邑記」には家数一八軒、「親鸞上人自筆あみだ仏所蔵の家あり」とある。
川村
やりかわむら
[現在地名]門前町鑓川
内保村の東、八ヶ川上流南岸の丘陵と山地に立地。中世には櫛比庄内保村の内。永和五年(一三七九)二月九日の長谷部宗悟寄進状(総持寺文書)に「やりかは」とみえ、総持寺法光院に長(長谷部)氏一族の芝叟・祖英・空照・宗悟ら四名の位牌料所供として山年貢一貫一五〇文の鑓川の山地を寄進している。永徳二年(一三八二)一〇月の総持寺新寄進田地目録(同文書)にこの山がみえ、同年一〇月一三日長氏の一族とみられるけや(気屋)の了宗が法光院領として承認している(「了宗内保村内寺領渡状」同文書)。
川村
かわむら
[現在地名]八王子市川町
大沢川の上流部に立地。元八王子村の北にあたる。田園簿に村名がみえ、田二四石余・畑六一石余で幕府領。寛文七年(一六六七)の柚井領川村検地帳(林家文書)が残る。元禄郷帳では高一〇〇石余。享保六年(一七二一)の山之根村高改帳では幕府領一〇〇石余。寛保三年(一七四三)の村明細帳(小松家文書)によれば、田三町三反余・分米一九石余、畑屋敷一四町四反余・分米八一石余、幕府および高家前田領があり、家数四二・人数一九七のうち千人同心四、大工二、預鉄砲八、名主一・組頭四・御林守二。
川村
やりかわむら
[現在地名]豊玉町鑓川
横浦村の北、オロシカ浦の西にある。中世は仁位郡のうち。「郡方毎日記」寛永一五年(一六三八)条に「やり川」とみえ、正保二年(一六四五)の物成は遣川村として麦二三石余・籾四斗余(二郡村々物成)。寛文元年(一六六一)の検地帳では仁位郡鑓川村として高一一石余。元禄一六年(一七〇三)の対州郷村帳では仁位郷槍川村として田畠木庭物成二九石余、家数一四・社一・寺一、人数七一・給人一・公役人六・肝入一・猟師五、牛八・馬二、船三で、寺は禅宗江福院(現臨済宗南禅寺派江福寺)。
川村
かわむら
[現在地名]弘前市三和
東は大蜂川を挟んで中畑村に接し、西は砂沢溜池に臨み、北は笹館村、南は小友村に続く。
貞享四年(一六八七)までは野木村と称していたが、同年川村と改称したといい(水元村誌)、天文年間(一五三二―五五)の津軽郡中名字に「野端」とあり、後の川村をさすと思われる。
正保二年(一六四五)の津軽知行高之帳の田舎郡に高三七・一三石とあり、うち田方三三石。
川村
あしかわむら
[現在地名]本荘市松ヶ崎 芦川
日本海に注ぐ芦川の河口にあり、海岸線に沿い丘陵がせり出す。東に下黒川村(現由利郡岩城町)、北は神の沢村、南に親川村がある。
寛永二年(一六二五)の油利之内修理大夫様御知行御検地帳免定之目録写に高一〇九石六斗五升五合、納米五八石一斗一升七合、免五ツ三分とある。正保三年(一六四六)の出羽国油利郡内高目録(秋田県庁蔵)には高七七石五斗七升とあり、「柴山有リ 小川有リ 海辺」とある。
川村
かわむら
[現在地名]上尾市川
宮下村の北西に鴨川を挟んで続き、西半は大宮台地指扇支台上にある。寛永二年(一六二五)九月「河村」一五〇石余が旗本柴田筑後守(康長)に宛行われた(記録御用所本古文書)。足立郡大谷領に属する(風土記稿)。もと今泉・向山・壱町目の各村とともに大谷村と称したと伝える。田園簿では田六一石余・畑八九石余・山高三石余、旗本柴田領。元禄一一年(一六九八)上知され、以後幕府領。検地は寛文元年(一六六一)施行された(風土記稿)。同五年の上尾宿助郷調(「絵図面村々高」田中家文書)では勤高一二〇石・役家七軒。
川村
おいかわむら
[現在地名]湯川村笈川
溷川左岸に位置し、村内を米沢街道が南北に通じ、南は笠目村、南東は王領村。「会津鑑」に昔は新国村というとある。村北の溷川右岸に館跡があり、「会津古塁記」は笈川村館とし、「三浦弾正頼盛築ク、其子栗村下総天正十二年謀反企テル也」とある。「新編会津風土記」には「村北一町余にあり、永禄天正の際葦名の臣栗村下総某と云者住せし処なり、下総は新国上総が子にて、天正十二年松本太郎に与力し、葦名家を乱さんとて黒川へ攻入しに、赤塚藤内が為に討れぬ、其後此館も廃せしにや」と記している。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録では高九三九石余。
川村
ならかわむら
面積:一一八・二〇平方キロ
木曾郡の北東端、木曾谷の分水界鳥居峠の北にある。北は塩尻市、東は上伊那郡辰野町・南箕輪村及び伊那市、南は日義村、西は木祖村に境している。北流する奈良井川に沿って、奈良井・平沢・贄川の集落が街村を形成している。村を南北に縦貫する国道一九号は、鳥居峠をトンネルで木祖村へ抜けている。北端桜沢からは牛首峠を越えて伊那の辰野町小野へ通じ、奈良井の南端からは川入を経て権兵衛峠を越えて伊那市へ通じる道がある。
川村
かわむら
[現在地名]余市郡余市町大川町・黒川町・登町・栄町・入舟町・朝日町・美園町
明治初年(同二年八月―同六年の間)から同二六年(一八九三)まで存続した村。黒川村の北にあり、当地で余市川が海に入る。一八五七年(安政四年)の土人人別書(林家文書)に川村とあり、一七戸・一一二人。五九年のヨイチ場所蝦夷人名前書(同文書)に川向村とあるのは当地か。明治三年の余市郡諸調書(札幌開拓使庁文書)にモイレ村とみえる。同六年の「後志国地誌提要」に川村とあり、戸数六一(平民一七・土人四四)、人口二四三(平民五二・土人一九一)。
川村
くしかわむら
[現在地名]海部町櫛川
中山村の西に位置し、外谷川・西敷川が流れる。慶長二年(一五九七)の分限帳に「櫛川」とあり、高三五五石余が益田宮内丞の知行分。慶長年間のものと推定される国絵図に「くし川」、寛永(一六二四―四四)前期のものと推定される国絵図では「くし川村」と記される。正保国絵図では「櫛川村」として高三二六石余。寛文四年(一六六四)の郷村高辻帳では田方三〇〇石余・畠方二六石余、芝山・小生山の注記がある。天和二年(一六八二)の蔵入高村付帳では高二九〇石余。
川村
こぼしのかわむら
[現在地名]佐賀町拳ノ川
荷稲村の北方、伊与喜川上流に位置し、中村街道が通る。元禄郷帳は「こぼしの村」、享和三年(一八〇三)の仮名付帳は「こぼしの川村」と記す。伊与木郷の一村。慶長二年(一五九七)の伊与木村地検帳に伊与木村を構成する一村として名がみえる。検地面積は一九町余、屋敷数は二五、うち居屋敷一三。江戸時代の当村は元禄郷帳によると本田高一八九石余。寛保郷帳では家数四九、人数一九二、馬三九、猟銃八。
川村
さつこむら
[現在地名]瀬戸内町薩川
瀬武村の北西に位置し、集落は瀬戸内の入江(薩川湾)に臨む。北に高鉢山がある。西間切実久方のうち。サッコウ、サスカワともいう。「大島私考」に実久方一三ヵ村のうちとして「薩川村」とみえ、高九五石余、うち享保内検後の開地は二石余。「大島与人役順続記」には一〇番組として儀世恵がみえる。ノロ祭祀の祭場であった神小屋のトネヤが残され、シマの背後の巨石が露出する神山はウボツ山とよばれる。
川村
かつらがわむら
[現在地名]犬飼町柴北 葛川
柴北村の南西、柴北川南岸にある。「豊後国志」に葛川とみえる。旧高旧領取調帳では高一三一石余。幕末まで岡藩領。安永七年(一七七八)には柴北組に属した(大庄屋・小庄屋・横目一覧「農民一揆」所収)。
川村
くずがわむら
[現在地名]苅田町葛川
片島村の西、岡崎村の北に位置し、高城山南麓末端部の丘陵上に立地。元和八年人畜改帳に村名がみえ、高二七七石余、家数二一・人数四一(うち百姓四・名子三)、牛三・馬二。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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