用土村(読み)ようどむら

日本歴史地名大系 「用土村」の解説

用土村
ようどむら

[現在地名]寄居町用土

末野すえの村の北東に位置し、鐘撞堂かねつきどう(三三〇・二メートル)北麓で当村の南西端がわずかに末野村と接続する。南は飯塚いいづか村・原宿はらじゆく(現花園町)中世の鎌倉街道上道がほぼ南北に通る。文明一二年(一四八〇)一一月二八日の太田道灌書状写(松平文庫所蔵文書)に「有土原」とみえ、同九年四月一四日には関東管領上杉顕定に背いた長尾景春大軍を、長尾忠景・太田資長(道灌)軍勢が用土原で撃退している。字前耕地まえごうちに所在する熊野神社には天文五年(一五三六)九月六日銘をもつ二口の鰐口があり、銘文にみえる用土新三郎小野業国は猪俣党藤田氏の一族とみられる(寄居町史)。一方、花園はなぞの城の城主藤田康邦は同一五年の河越合戦後に小田原北条氏の配下に入り、のち養子北条氏邦へ城を譲って引退し、用土城を築いて用土新左衛門と称したという(「風土記稿」、「鉢形之由来并町田之年譜」町田家文書)。年未詳五月一三日の北条氏邦判物(写、「吉田系図」吉田久子氏蔵)は足軽衆の備えについて規定したものであるが、そのなかに「一ケ所 用土上下、足軽持分」とみえる。


用土村
ようどむら

[現在地名]浜坂町用土

古市ふるいち村の南にある。集落の東側を岸田きしだ川が流れ、同川に沿って浜坂往来が通る。弘治三年(一五五七)の「但馬国にしかた日記」には「ようとふ」とみえ、当地には坂尾殿・「にう殿」・木村あふミ殿などが住んでいた。江戸時代の領主の変遷は古市村に同じ。郡中惣高(福井家文書)では太閤検地高とみられる古高九〇石余。元和三年(一六一七)の宮城豊盛領二方郡高帳に村名がみえ、高は前出古高に同じで、小物成として山手米一石六斗二升、桑手の綿二四六匁などが課せられていた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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