日本歴史地名大系 「寄居町」の解説 寄居町よりいまち 埼玉県:大里郡寄居町面積:六四・一六平方キロ明治二九年(一八九六)成立時の大里郡南西端に位置し、現在東は深谷市、花園(はなぞの)町・川本(かわもと)町、比企郡嵐山(らんざん)町、西は秩父郡長瀞(ながとろ)町・児玉郡美里(みさと)町、南は比企郡小川(おがわ)町、秩父郡東秩父(ひがしちちぶ)村・皆野(みなの)町、北は岡部(おかべ)町に接する。東部と北部は平坦地、西部と南部は上武(じようぶ)山地や外秩父山地あるいは比企丘陵の尾根に続く山地となる。町域中央を荒川がほぼ東流する。右岸では南西部を釜伏(かまふせ)川が北流し、金尾(かなお)で荒川に注ぐ。また南部から発した塩沢(しおざわ)川や深沢(ふかざわ)川も北流し、小園(こぞの)・鉢形(はちがた)でそれぞれ荒川に合流するほか、南部から北東流して川本町本田(ほんだ)へ流れる吉野(よしの)川があり、南部から北流する市野(いちの)川は牟礼(むれい)で南東方に流れを変えて小川町高見(たかみ)へ流下する。関越自動車道がL字形の町域の南東端と北端を通過し、中央部を東西に横断する国道一四〇号(旧秩父往還)と南北へ縦断する国道二五四号は桜沢(さくらざわ)で交差する。県道は寄居―深谷線など一一線がある。JR八高線と秩父鉄道は寄居駅で接続し、同駅は東武東上線も乗入れており東京池袋(いけぶくろ)駅への起点にもなっている。旧石器時代の遺跡は、局部磨製石斧・打製石器・ナイフ形石器などがまとまって出土した末野(すえの)遺跡をはじめ、ナイフ形石器を主体とした南飯塚金嶽(みなみいいづかかなたけ)遺跡・牛無具利(うしむぐり)遺跡などが知られる。縄文時代の遺跡は荒川の河岸段丘上に多くみられ、早期は堀込(ほりごめ)遺跡、前期は南大塚(みなみおおつか)遺跡、中期は北塚屋(きたつかや)遺跡・甘粕原(あまかすはら)遺跡・露梨子(つゆなし)遺跡・東国寺東(とうごくじひがし)遺跡などが確認されている。露梨子遺跡では柄鏡形住居跡が、上郷西(かみごうにし)遺跡・樋(ひ)ノ下(した)遺跡では後期の敷石住居跡が発見された。弥生時代の遺跡は櫛挽(くしびき)台地に関東を代表する初期農耕集落の用土平(ようどたいら)遺跡が存在する。古墳時代の集落跡は用土南藤田(ようどみなみふじた)遺跡・富田中芝(とみだなかしば)遺跡・塚田赤木(つかだあかぎ)遺跡が知られている。古墳は、荒川左岸ではかつて桜沢の中小前田(なかおまえだ)から花園町小前田にかけて一〇〇基以上が築造されていた小前田古墳群をはじめ樋ノ下古墳群があり、右岸の台地上には壁(かべ)ヶ谷戸(やと)・赤浜(あかはま)・上郷・伊勢原(いせはら)の各古墳群が展開している。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「寄居町」の意味・わかりやすい解説 寄居〔町〕よりい 埼玉県北西部,秩父山地の北東麓にある町。 1889年町制。 1955年用土 (ようど) ,折原 (おりはら) ,鉢形 (はちがた) ,男衾 (おぶすま) の4村と合体。荒川扇状地の扇頂部で,荒川沿いには河岸段丘が発達。北岸の段丘上にある中心集落の寄居は,荒川の谷口集落で,中世は城下町,江戸時代は市場町として発展した。右岸に残存する北条氏邦の居城・鉢形城遺構は史跡。周辺は畑作卓越地域で,風布 (ふうっぷ) ・小林地区は北限のミカン栽培で知られる。 1964年荒川総合開発事業の一貫として完成した玉淀ダムがあり,長瀞玉淀県立自然公園の一部となっている。近年は宅地化が進んでいる。面積 64.25km2。人口 3万2374(2020)。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報 Sponserd by