朝日日本歴史人物事典 「田代毅軒」の解説
田代毅軒
生年:天明2(1782)
江戸後期の肥後国(熊本県)人吉藩家老。通称善右衛門,字は子礼,小字は原二郎,諱は政典。江戸の細井平洲,久留米の樺島石梁に学ぶ。槍術の名手でもあった。用人,勘定奉行,郡奉行を経て,文政4(1821)年に家老職に抜擢され,植林,新田開発,人参・椎茸栽培など殖産興業を推進したが,減知,上米を家中に命じた財政再建策が留守居役相良左仲らの反感を買い,また椎茸栽培は茸山への立ち入りを禁じたため山菜などをとって飢饉をしのごうとしている農民生活を圧迫した。天保12(1841)年左仲は農民を扇動して百姓一揆(茸山騒動)を勃発させ,毅軒は責任をとって永国寺山で切腹した。<参考文献>『人吉市史』
(福田千鶴)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報