田伏村(読み)たぶせむら

日本歴史地名大系 「田伏村」の解説

田伏村
たぶせむら

[現在地名]出島村田伏

霞ヶ浦に突出した半島の最先端にあり、西は岩坪いわつぼ村、南はさか村。中世南野みなみの庄に属し、小田氏の家臣田伏氏が田伏城を築いて支配した。「東国闘戦見聞私記」によれば、天正期(一五七三―九二)に小田氏治に従った田伏次郎太夫が北条治高との君島川の合戦に戦功を立てている。田伏氏はその後佐竹氏に滅ぼされるが、当地は一時大掾氏の支配下に入る(常陸大掾幕下録)。のち佐竹氏の一族東義久の知行地となり、文禄四年(一五九五)の中務大輔当知行目録(秋田県立図書館蔵)に「三百七十八石三斗 田ふせ」とある。

江戸時代は水戸藩領で、寛永一二年(一六三五)の水戸領郷高帳先高に村高九一三石三斗三升とある。


田伏村
たぶせむら

[現在地名]富山市水橋田伏みずはしたぶせ

白岩しらいわ川東方の平地に位置し、南西清水堂しみずどう村、西は北馬場きたばんば村。元和五年(一六一九)の三介組借米渡口覚(三辺家文書)に、富山蔵での請取分として「上条之内田伏村」は一五俵余とみえる。正保郷帳では高四九三石余、田方三二町八反余・畑方六畝余、新田高二八石余。明暦二年(一六五六)の村御印留では草高四一四石・免四ツ。嘉永四年(一八五一)まで草高・免に変化はない(「高免定納等手帳」杉木家文書)。所属組は伊勢屋いせや村と同じ。


田伏村
たぶせむら

[現在地名]糸魚川市田伏

日本海に面する北陸道沿いの村。東は梶屋敷かじやしき村、西は大和川やまとがわ村。正保国絵図に高一三〇石余とある。天和三年郷帳では田臥村と記し、高一二一石九斗余。村内に糸魚川藩の郷蔵の田伏蔵が置かれていた。元文元年(一七三六)一〇月六日、当地方一帯は高波に襲われ、家・道・船などに多大の被害を受け、これを元文の波崩れとよんだ。被害の規模が大きいため、糸魚川藩では国役普請幕府に願出た。翌年見分使が派遣され、同三年九月には田伏村分の普請が行われた。屋敷表波除け長さ六九間三尺、屋敷継波除け長さ一六間、堀川一ヵ所、往来橋一ヵ所は長さ一丈一尺・幅九尺五寸・欄干付であった。文化三年(一八〇六)一〇月二四日にも大波による被害があり、翌年東西九〇間にわたり波除普請が行われ、人足三千一八三人、大杭一八一本・小杭一八〇本を要した(糸魚川市史)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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