田尾村(読み)たおむら

日本歴史地名大系 「田尾村」の解説

田尾村
たおむら

[現在地名]富江町田尾郷たおごう繁敷郷しげじきごう

富江村の北にあり、東に海が広がる。北にたか岳があり、田尾川・ヘゴチ川が注ぐ。田尾と繁敷からなる。弘和三年(一三八三)当時は倭寇とされる田尾氏(草野氏)が三代にわたって住していたと伝え、同氏のものという墓石がある。慶長六年(一六〇一)福江大円ふくえだいえん寺の一一世正岩良伝により田尾ノ平に禅宗の広峰山高照こうしよう寺が創立されたと伝えるが、同一二年ともいわれる。同一二年乙宮おとみや神社が創祀されたという。江戸時代は初め福江藩領で、富江掛に属する。慶長国絵図(松浦家本)に田尾とみえ、高一〇〇石余。慶安二年(一六四九)の肥前国道法帳によれば田尾村内に一里山が築かれていた。


田尾村
たびむら

[現在地名]市原市田尾

鶴舞つるまい村の南に位置し、平蔵へいぞう川が流れる。永禄七年(一五六四)里見方を攻めるため池和田いけわだ城を攻撃した際に当地に構えたのが陣馬台じんばだい砦であるという。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高六二八石。元禄郷帳では高六三八石余。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では高六二八石余で家数一二三、旗本水野二氏領。


田尾村
たおむら

[現在地名]大野町片島かたしま

片島村の北にある。正保郷帳に村名がみえ、田高四五石余・畑高三五石余、藤北ふじきた郷に属した。旧高旧領取調帳では高九五石余。安永七年(一七七八)には片島組に属した(大庄屋・小庄屋・横目一覧「農民一揆」所収)


田尾村
たおむら

正保郷帳では藤原ふじばる郷に属し、田方四石余・畑方八一石余とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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