中国と日本の仏教宗派の一つ。日本では,鎌倉時代より江戸時代の初期にかけて,中国より伝えられる24流48伝がそのすべてで,今では臨済,曹洞,黄檗の3派に大別される。
禅は,インドに起き,禅宗は,中国で始まる。座禅を意味するインド仏教の禅に対し,禅宗は自派の起源を次のように主張する。仏陀が晩年,霊鷲山で説法していると,梵天(ヒンドゥー教の神)が一枝の花を献ずる。仏陀は,これを大衆に示す。大衆には,何のことか判らぬ。長老の摩訶迦葉(まかかしよう)だけが,にっこりとうなずく。仏陀は迦葉をほめ,印可を与えて,自分の正法眼蔵,涅槃(ねはん)妙心,実相無相,微妙の法門を,不立文字,教外別伝して,残りなく迦葉に付嘱すると宣言するのである。自分が生涯に今まで説いた八万四千の法門は,応病与薬の方便教であった。病まぬ人に薬は無用であり,迷わねば悟ることも要らない。正法眼蔵とは,そんな本来の仏語である。涅槃妙心は,仏陀が入涅槃を直前にひかえて説く《大般涅槃経》の真実であり,実相無相は,法華の奥義たる諸法実相を意味する。法華も華厳も花である。花の心をみよ,仏語心をみよ,というのである。
正法眼蔵は,迦葉より二十八伝して,菩提達磨に至り中国に伝えられる。〈我このくにに来たってより,法を伝えて迷情を救う,一華五葉を開き,結果自然に成る〉といわれるように,達磨五伝して曹渓慧能(えのう)に至り,さらに唐より宋初のあいだに,五家七宗に流れを分かつ。五家とは,臨済,潙仰(いぎよう),曹洞,雲門,法眼の5派,七宗はこれに臨済の分派である,黄竜と楊岐の2派を加えるのである。五家七宗は,中国禅の主な祖師の名をあげたにすぎず,実際は一人一派,無慮無数の禅があるはずである。いずれも,仏陀の正法眼蔵を伝え,一器の水を他の一器に瀉(そそ)ぐように,以心伝心するのであり,そうした自覚を禅宗とよぶ。禅宗は,中国民族自身の宗教として,唐末五代の戦乱と廃仏で他の諸宗が衰えたあと,いよいよ盛大となる。とくに宋代に入ると,社会の各層に進出し,新儒学とよばれる宋学と交流しつつ,学問,文学,工芸などの分野に,はばひろい生活文明を創出する。日本の禅宗は,それらをあわせて受容するのであり,独自の近世禅文化を開くこととなる。
日本の臨済宗は,鎌倉時代の初めに明庵栄西が入宋して,五家七宗のうちの黄竜宗を伝え,《興禅護国論》を著して,旧仏教との調和をはかりつつ,鎌倉幕府の帰依で京都に建仁寺を開くのに始まり,同じく鎌倉幕府が招いた蘭渓道隆や無学祖元などの来朝僧と,藤原氏の帰依で京都に東福寺をひらく弁円や,これにつぐ南浦紹明(なんぽしようみよう)(1235-1308)などの入宋僧の活動によって,短期間に鎌倉と京都に定着し,やがて室町より江戸時代にその後継者が,各地大名の帰依で全国に広がるものの,先にいう四十八伝二十四流の大半が,栄西と道元その他の少数を除いてすべて臨済宗楊岐派に属する。臨済禅は,唐末の禅僧,臨済義玄(?-866)を宗祖とし,その言行を集める《臨済録》をよりどころとするが,日本臨済禅はむしろ宋代の楊岐派による再編のあとをうけ,とくに公案とよばれる禅問答の参究を修行方法とするので,おのずから中国の文学や風俗習慣に親しむ傾向にあり,これが日本独自の禅文化を生むことになり,五山文学とよばれるはばひろい中国学や,禅院の建築,庭園の造型をはじめ,水墨,絵画,墨跡,工芸の生産のほか,それらを使用する日常生活の特殊な儀礼を生む。栄西が宋より茶を伝え,《喫茶養生記》を著して,その医薬としての効果を説いたことも,後になると茶道の祖としての評価を高めることとなる。臨済禅の伝来は,そうした中国近代文明の持続的な日本への伝来とともにあり,これを集大成するのが,黄檗山の開創である。
黄檗宗は,中国の福州黄檗山万福寺の住持,隠元隆琦が,江戸幕府の帰依で宇治に万福寺を開いたのに始まる。隠元隆琦は,中国では臨済宗楊岐派に属し,日本でも臨済正宗を名のるが,鎌倉以来すでに日本に来ている臨済禅が,宋・元時代のそれを伝えて完全に日本化しているのに比して,近世中国の風俗習慣を伴う隠元の臨済禅は,日本仏教徒にあらためて中国仏教の現実を見せつけることとなる。中国仏教としての正統意識も加わって,ついに日本臨済宗と異なる新しい黄檗禅を開かせる結果となり,日本臨済禅のみならず,日本仏教そのものがあらためて自派の宗統意識を確立するきっかけとなる。黄檗山の建築と黄檗僧の生活様式は,すべて中国風であり,住持は13代まで,中国僧によって占められた。21代まで日中交互に住持となり,22代以後になって中国僧の往来が絶える。黄檗山は日本の中の中国であった。黄檗僧が伝える近世中国の学問や医学,文人趣味の書画や煎茶など,かつての臨済宗の禅文化と,まったくちがった傾向をもって,近世日本文化に与えた影響は大きいし,日本臨済禅のみならず,曹洞宗もまた自派の伝統を再編することとなる。
日本の曹洞宗は,永平寺を開創する道元希玄が入宋し,天童如浄に参じて,その正法眼蔵を伝えるのに始まる。天童如浄は,中国曹洞宗に属したが,道元によると自己の宗旨を五家の一つとしての曹洞宗とせず,仏法の全道をもって自任する。禅とよぶことすら,強く戒めたといわれる。道元の《正法眼蔵》は,このことを明かす開宗の書である。道元の曹洞宗は,先輩の栄西をはじめ,のちに展開する臨済禅とは明確に思想的に区別される新しい視点をもつ。とくに初期の深草興聖寺に集まった道元の弟子たちは,永平2世となる懐奘(えじよう)や3世義介(ぎかい)をはじめとして,大半が日本達磨宗の人々である。日本達磨宗は,日本天台より出た大日能忍が,叡山の祖師たちの伝える達磨禅の書によって無師独悟し,新しく開創した日本禅であり,すでに数代の伝統をもつ。能忍は弟子を中国に派し,育王山の徳光に印可を求めて,印可を得る。徳光は,大慧につぐ名僧で臨済宗楊岐派に属するから,達磨宗は中国臨済宗を受けたことになる。ところが,日本天台はこれを認めず,栄西もまた能忍の禅を退ける。能忍の死後,弟子たちはあらためて道元の下に入門する。道元は,達磨宗の人々を包容することで自己の新仏法を出発させるのである。道元に始まる正伝の仏教が曹洞宗とよばれるのは,永平3世の義介が,すでに京都や博多に定着している臨済禅に対して,あらためて自派の伝統を確認し,これを紹瑾(じようきん)に伝えたことによる。紹瑾は能登に洞谷山永光寺を開き,如浄以来の伝統を再編して五老峰をつくるとともに,仏陀より懐奘に至る伝灯を記す《伝光録》を編するのであり,日本曹洞宗の伝統はここに確立される。日本曹洞宗は道元を高祖とし,瑩山紹瑾を太祖とよんでいる。
→禅 →禅宗美術
執筆者:柳田 聖山
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中国と日本の、仏教の一派。6世紀の初め、インド僧の達磨(だるま)(ボーディダルマ)が開宗、唐より宋(そう)初にかけて、中国文明の再編とともに、民族自らの宗教として独自の教義と歴史をつくり、鎌倉時代以後、日本にきて結実する。経論の学問によらず、坐禅(ざぜん)と問答によって直接に仏陀(ぶっだ)の心に目覚める、見性悟道を説く。近世中国の仏教はみな禅宗を名のるが、日本では他の諸宗に伍(ご)して、曹洞(そうとう)、臨済(りんざい)、黄檗(おうばく)の3派を数える。
[柳田聖山]
禅宗では、仏陀が霊鷲山(りょうじゅせん)で説法していると、梵天(ぼんてん)が金婆羅華(こんぱらげ)を献じ、仏陀は黙って花を大衆に示すと、摩訶迦葉(まかかしょう)がひとり破顔微笑(みしょう)したので、仏陀は迦葉に正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)を伝えた、という説があり、それが立宗の基となっている。正法眼蔵とは、仏教のエッセンスを意味する。迦葉より二十八伝して、達磨が中国にきて初祖となり、六伝して慧能(えのう)(638―713)に至る。慧能は新州(広東(カントン)省新興市)の生まれで、生涯ほとんど嶺南(れいなん)を出ず、眼(め)に一丁字(いっちょうじ)もなかったが、労働と参禅によって正法眼蔵を得る。そのことばを集める『六祖壇経(ろくそだんきょう)』によると、外ではどんな環境にいても、心のおこらぬのが坐(ざ)、内では自性に目覚めて、自性の乱れぬのが禅であるという。禅宗は、そうした日常のくふうと、創意を求めるのである。従来、華北の首都を中心に、上層階級の帰依(きえ)によって、高度の学問体系を誇った各派が、唐末五代の社会変動によって一時に衰滅するのと反対に、禅宗は全国各地に支持者を得、五家七宗の盛期を迎える。すなわち、主として湖南に拠(よ)る潙山霊祐(いさんれいゆう)(771―853)と、その弟子仰山慧寂(きょうざんえじゃく)(807―883)の潙仰宗(いぎょうしゅう)、江西に拠る洞山良价(とうざんりょうかい)(807―869)と、その弟子曹山本寂(そうざんほんじゃく)(840―901)の曹洞宗、河北の鎮州に拠る臨済義玄(りんざいぎげん)(?―866)の臨済宗、嶺南に拠る雲門文偃(うんもんぶんえん)(864―949)の雲門宗、および金陵に拠る法眼文益(ほうげんぶんえき)(885―958)の法眼宗であり、さらに臨済宗8代の黄龍慧南(おうりゅうえなん)(1002―1069)と、楊岐方会(ようぎほうえ)(992―1049)の2人が、それぞれ江南に一派を開くのをあわせて、五家七宗の禅宗が、近世中国仏教を代表するのである。
[柳田聖山]
日本の禅宗は、建仁寺の栄西(えいさい)(1141―1215)が黄龍宗を伝え、永平寺の道元(1200―1254)が曹洞宗を伝えるのに始まり、24流を数える宋朝禅が日本で大成されることとなる。とりわけ、楊岐宗の日本伝来は、中国の近世文明を伴うので、新儒教の朱子学をはじめ、文学や美術、建築、日常生活の創意にわたって、日本中世文化の発展に作用する。たとえば、江戸時代の初め、福州黄檗山(おうばくさん)の隠元隆琦(いんげんりゅうき)(1592―1673)が諸弟子とともに来朝し、将軍徳川家の帰依によって、京都に黄檗山万福寺を開く。隠元の禅は楊岐宗に属するが、中世日本の楊岐宗と異なって、近世中国の文人趣味や、医学、社会福祉など、多方面の新文明を伴って、日本仏教各派の再編を促すのであり、盤珪永琢(ばんけいようたく)(1622―1693)、白隠慧鶴(はくいんえかく)(1685―1768)、卍山道白(まんざんどうはく)(1635―1714)、面山瑞方(めんざんずいほう)(1683―1769)など、臨済・曹洞2派の復古と改革運動が、これに続いて起こる。
禅宗では、真理はわれわれの言語、文字による表現を超えているとし(不立文字(ふりゅうもんじ))、師から弟子へ直接に心で心を伝える(以心伝心)といわれて、その系譜が重んぜられる(師資相承(ししそうじょう))。
[柳田聖山]
『『講座 禅』全8巻(1967~1969・筑摩書房)』▽『鈴木大拙著、北川桃雄訳『禅と日本文化』(岩波新書)』
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中国と日本の仏教の一派で,坐禅を宗とする人々の集り。今日,禅宗とよばれる宗派は,北魏末に中国にきたインド僧達磨(だるま)を初祖とし,唐から宋代にかけて臨済・曹洞・潙仰(いぎょう)・雲門・法眼の5家にわかれ,さらに臨済から黄竜(おうりょう)・楊岐(ようぎ)の2派がでた。宋代以後,五家七宗は臨済宗楊岐派と曹洞宗の2派だけとなった。鎌倉時代から江戸時代初めにかけて,それらすべての流派が日本に伝わり,いわゆる二十四流をかぞえ,今日では曹洞宗・臨済宗・黄檗(おうばく)宗の三つにわかれる。日本に本格的に禅を伝えたのは,1187年(文治3)に入宋した栄西である。道元は1223年(貞応2)に入宋して曹洞宗を伝えた。栄西は臨済宗の祖師,道元は曹洞宗の祖師とされる。
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…日本の芸能では,免許証や許状を出す意となる。《維摩経》弟子品に,維摩が舎利弗(しやりほつ)の座禅を叱り,正しい座禅の心得を説いて,このようにすれば仏は印可される,といっているのが根拠であり,中国の禅宗では,そうした印可の印として,衣鉢や禅板,机案,払子(ほつす)などを与えることとなり,さらにその事由を記す印可状や,師の肖像(頂相(ちんそう))に賛をつけて与える風習が生まれて,日本に多くの遺品を伝える。《日葡辞書》にも,インカヲダス,トルなどの例がある。…
…とりわけ,具体的な座禅の仕方を説く坐禅儀は,天台のそれを最初とする。 中国の禅宗は,智顗の活動とほぼ同じころ,西域より華北に来たインド僧達磨を初祖とし,その6代を名のる曹渓慧能(えのう)に大成される。禅宗の禅は,座禅や止観のことではなくて,人の心そのものとなる。…
…元暁は和諍(わじよう)思想を説き,義湘は華厳十刹を創建した。この華厳をはじめ律(慈蔵),涅槃,法性,法相の五教のほか浄土教や密教も行われたが,8世紀以後になると,中国の禅宗が新羅人によって伝えられ禅門九山が成立し,高麗時代に盛行するに至った。 高麗の太祖王建は崇仏の念あつく,護国鎮護の法として仏教を保護し,多くの寺院を建立し,無遮大会や八関会(はちかんえ),燃灯会などを行ったため,仏教は社会全体に深く浸透した。…
…このように,彼らは最初は天台宗や律宗など自分たちの宗旨を学んでくるのが第一の目的であった。ところが,大陸仏教界ではすでに禅宗が主流を占めていたため,やがて禅宗各派を学んでくるものが多くなっていった。 そうしたなかで画期的な役割を果たしたのは,再度の留学によって,1191年(建久2)に臨済宗黄竜(おうりよう)派の禅を伝えた栄西である。…
※「禅宗」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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