田村新田
たむらしんでん
[現在地名]井手町大字田村新田
玉川上流の山中にあり、北は二ノ谷池(現大正池)を隔てて奥山新田と接する。周囲を四〇〇メートル級の山並に囲まれた山村で、村の北北東の白栖村(現相楽郡和束町)山中から発した玉川が、村内を南南西へと流れる。明治期まで相楽郡に属した。南部の字平ヶ谷には南有王集落があり、現井手町の飛地となっている。
元禄一四年(一七〇一)―宝永二年(一七〇五)に相楽郡南村(現和束町)の禁裏御料代官の田村清兵衛永貞が、宮中の財政緩和のために当地を開発し、当初戸数二三、人口八七、牛四疋が入植したという。
田村新田
たむらしんでん
[現在地名]大潟町潟田
蜘ヶ池村の東に位置し、北に天ヶ池、北東に蜘ヶ池がある。寛文元年(一六六一)から延宝六年(一六七八)にかけて行われた大潟新田開発によって成立した新田で、開発高は二五〇石六斗余(笠原家文書)。天和三年(一六八三)の検地帳には家数一〇・人数三七とある。同年郷帳には高二四一石八斗余と記される。大潟新田耕地の経営と新堀川運営方策の一つとして考えられていた酒造業は天保一一年(一八四〇)の秋から開始され、共同経営者八人のなかで当村の笠原文右衛門は下増田新田(現頸城村)の大竹儀助とともにその中心であった(大
郷新田開発史)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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