新堀川(読み)しんぼりがわ

日本歴史地名大系 「新堀川」の解説

新堀川
しんぼりがわ

新堀ともいう。浅草寺の北方、千束せんぞく村・竜泉寺りゆうせんじ村・坂本さかもと村など一帯の悪水落しを水源とし、海禅かいぜん寺北裏を東へ流れたのち向きを南に転じて同寺東側、浅草本願寺西側を南下浅草福富あさくさふくとみ町一丁目東側の頒暦調所北で少し東へ折れたのち浅草御蔵前片あさくさおくらまえかた町西裏を南流、同町南端で三味線しやみせん(鳥越川)に合流する。堀幅二間余の人工河川。開削の時期は不明だが、明暦(一六五五―五八)以降とみられ(御府内備考)、寛文新板江戸絵図にみえる。その後石神井しやくじい用水の水も当堀に落された(御府内備考)。元禄五年(一六九二)弥十郎・次郎左衛門・甚右衛門の三名が新堀定浚を請負い、その助成として沼地を与えられて下谷小島したやこじま町を開いた。明和元年(一七六四)同町は上納地となり、能役者観世織部が一円を拝領。


新堀川
しんぼりがわ

橋本はしもと川と松本まつもと川を結ぶ全長約二・九キロの川。貞享四年(一六八七)幕府の許可を受けて唐樋からひから萩城外堀南片河みなみかたかわ町南詰に至る東西一〇町余を開削して新堀川と名付けた(毛利家文庫旧蔵新溝之絵図、虚実見聞記)。川に沿う北側の道路を新堀筋といい、新堀筋に沿う東田ひがしだ町・西田にしだ町・かわら町・呉服ごふく町弐丁目・同壱町目の南部地域をいずれも新堀という。呉服町新堀近くに住んでいた桂小五郎(木戸孝允)は新堀松輔という変名を使ったことがある。

唐樋以東の新堀川はのち入江の埋立によって形成され、北の浜崎はまさきまで通じるようになった。一方、南片河町南詰以西の部分は萩城の外堀であり、明治後期以後、一括して新堀川とよばれるようになった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の新堀川の言及

【高田平野】より

荒川が平野の西寄りに北流し,支流の矢代,飯田,保倉の各川が複合扇状地を形成しており,段丘化した南部は排水がよい。海岸には頸城砂丘が発達し,背後は低湿地となって潟湖群が見られ,江戸末期には砂丘に排水路の新堀川が掘削されて大潟が,また1973年には犀ヶ池(さいがいけ)が干拓された。平野の開発は条里制の遺構の見られることから古いと考えられるが,江戸時代に荒川上流の関川を水源とする上江,中江,下江,稲荷中江の用水路が開削され,穀倉地帯が形成された。…

【萩[市]】より

…町数は1694年(元禄7)に萩城下本町41,浜崎13であったが(《元禄御国目付記》),1716年(享保1)城下本町で増加して合計58町となり(《巡見御目付集》),以後幕末まで変動はなかった。たびたび洪水に見舞われたため,中央部に1687年(貞享4)新堀川,1739年(元文4)藍場川を開削し,松本川下流に1855年(安政2)姥倉運河を開通させて排水を行い,灌漑や舟運に利用した。1863年(文久3)藩庁が山口に移転したため,萩は城下町の機能を失い,経済的にも大きな打撃を受けた。…

※「新堀川」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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