田窪村(読み)たのくぼむら

日本歴史地名大系 「田窪村」の解説

田窪村
たのくぼむら

[現在地名]重信町田窪

重信川中流域右岸に位置する農村。東は見奈良原みならばら、北は西之岡にしのおか、西は牛淵うしぶち、南は下林しもばやしうえの村々と接する。

慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)浮穴うけな郡の項に「田ノ窪村 日損所、小川有」とみえ、村高は「志津川村より出作共」として一千六五六石五斗六升、うち田一千三七八石四斗一升七合、畑二七八石一斗四升三合とある。この村高は五〇年後の元禄一三年(一七〇〇)の領分附伊予国村浦記に分筆され、田窪村八八八石二斗五升六合、枝郷志津川しつかわ村入作七六八石三斗四合とあるので、田窪村の石高が明らかになる。


田窪村
たくぼむら

[現在地名]川本町田窪

三原みはら村の北西、現桜江さくらえ町へ流れ出る小谷こたに川および木谷きだに川の源流域の山間に立地する。天文一一年(一五四二)一一月二八日の小笠原長徳書下状(森本家旧蔵文書)に「田窪村」とみえ、長隆が二〇貫文と定めた同村段銭役を、同村領主横道氏の詫言を入れ一五貫に減じている。小笠原氏の拠った丸山まるやま城の支城の田窪城、そのほか砦が多くあったと伝え、土居城山どいじようざん古屋敷ふるやしき古城西平こじようにしびら山城屋やましろやなど城や砦に関連するとみられる地名が残る。また宮の地みやのじは平安時代創立と伝える江俣えまた八幡宮跡地とされ、ほかにも三蔵寺さんぞうじ善藤寺ぜんとうじ絵堂えどう堂仏坂どうぶつざかなど廃寺跡とみられる地名が残る。元禄一〇年(一六九七)の石見銀山領村々覚によれば田方二八五石余・畑方四四石余、年貢高は米一五七石余・銀三五六匁余、小物成は鉄穴役銀一〇匁など、家数は本家六一・門屋四二、人数四三四。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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