小笠原氏 (おがさわらうじ)
甲斐出身の中・近世の武家。甲斐源氏加賀美遠光の次男長清が,甲斐巨摩郡小笠原(山梨県北杜市の旧明野村と南アルプス市の旧櫛形町との2説がある)に住んだのに始まる。長清は父とともに源頼朝に従って平家追討に戦功をあげ,遠光は信濃守,長清は信濃国伴野荘地頭に任ぜられた。後に長清は軍功によって阿波の守護職を与えられ,守護職は子の長経を経てその子長房の子孫に伝えられた。長経・長忠の嫡流は武田氏とともに由緒ある御家人として幕府に仕え,とくに騎芸乗馬礼法の家として尊重された。元弘の乱(1331)に際し貞宗は笠置攻めに参加し,のち足利尊氏に従って手柄をたて信濃守護に任ぜられ,国内に多くの所領を得て居館を筑摩郡井川(長野県松本市)に移した。しかし当時信濃には村上,諏訪,高梨らの豪族がおり反抗したので,領国経営は思うにまかせず,地位は不安定であった。政康は一応国内を統一したが,その没後持長と政康の子宗康が争い(嘉吉の内訌),宗康は弟の光康とともに府中を去り伊那郡松尾(長野県飯田市)に移り,光康は松尾小笠原氏の祖となった。持長の子清宗は林城(松本市里山辺)を築き住んだ。松尾小笠原氏は信嶺のときに武田信玄に属し,武田家滅亡後は織田・徳川に従い,1590年(天正18)に武蔵本庄に1万石で封ぜられ,その子信之は下総古河,その子政信は同関宿,さらに貞信のときに美濃高須を経て,1691年(元禄4)越前勝山2万3000石に移封され幕末に至った。一方,府中小笠原氏は長棟を経て長時が1548年(天文17)に信玄と戦って敗れ,のち上杉謙信のもとへ走った。長時の子貞慶は豊臣秀吉に属し,その子秀政は徳川家康に仕え,90年に下総古河3万石に封ぜられ,ついで信濃飯田,同松本に移封された。大坂の陣で秀政・忠脩父子が戦死したために,忠脩の弟忠真が家を継ぎ播磨明石10万石,さらに1632年(寛永9)には豊前小倉15万石(小倉藩)へ加増移封され幕末に至った。同時に忠脩の子長次は播磨竜野から豊前中津に,忠真の弟忠知は豊後杵築に,同じく弟で能見松平氏を継いだ重直が豊前竜王に入り,小笠原氏は徳川譜代の九州進出の先兵となったが,転封により,幕末にはそれぞれ播磨安志藩,肥前唐津藩,豊後杵築藩主となった。明治に至り小倉藩主家のみ伯爵,他は子爵となった。一族には武家礼法の小笠原流を伝えた家があり,江戸時代には旗本であった。
執筆者:笹本 正治
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小笠原氏
おがさわらうじ
新羅三郎義光(しんらさぶろうよしみつ)を祖とする甲斐源氏(かいげんじ)で、武田氏と同族。3代遠光(とおみつ)の子長清(ながきよ)が甲斐国小笠原(山梨県南アルプス市小笠原)の地に住んで小笠原を名のった。遠光は平氏追討に戦功があって信濃(しなの)(長野県)の国司に任ぜられ、長清も信濃の伴野荘地頭職(ともののしょうじとうしき)に補(ぶ)せられ、源頼朝(みなもとのよりとも)の親任が厚かった。その後、長清の子孫が阿波国(あわのくに)(徳島県)の守護職を継いだ。元弘(げんこう)の変(1331)には貞宗(さだむね)が足利尊氏(あしかがたかうじ)に従って戦功をあげ、北条氏にかわって信濃の守護となり、その地に多くの所領を得た。小笠原氏宗家(そうけ)は本拠地を甲斐から信濃に移し、南北朝の内乱時代を幕府方として活躍した。政康(まさやす)は関東の影響で乱れる信濃を1440年(永享12)に平定したが、その死後、一族は府中小笠原(ふちゅうおがさわら)と伊那小笠原(いなおがさわら)に分裂し対立した。庶流の京都小笠原家は室町将軍家の弓馬指南として、後世に小笠原流を伝えた。
天文(てんぶん)年間(1532~1555)の武田信玄(たけだしんげん)の侵入により、戦国大名小笠原長時(ながとき)は府中(松本市)を追われたが、その子貞慶(さだよし)は徳川家に仕え、武田氏の滅亡のとき信濃に入って家を再興した。その後、小笠原氏は豊前国(ぶぜんのくに)小倉(こくら)(福岡県北九州市)に移封となった。越前(えちぜん)藩主の小笠原は伊那の系統である。
[湯本軍一]
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小笠原氏【おがさわらうじ】
信濃(しなの)の守護大名。甲斐(かい)源氏で甲斐国小笠原村出身。15世紀半ばに相続をめぐる内紛で松尾と府中に二分,松尾小笠原氏は江戸中期に越前(えちぜん)勝山藩主となり,府中小笠原氏は徳川家康につかえて豊前(ぶぜん)小倉藩主となったほか,一族は播磨安志(はりまあんじ)・肥前(ひぜん)唐津などの藩主となって明治に至る。南北朝期から戦国末期の《小笠原文書》は,地方守護の政治経済状況を示す好史料。
→関連項目棚倉藩|松本城|八代荘
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小笠原氏
おがさわらうじ
甲斐源氏の祖源義光の子孫。加賀美遠光の次男長清が甲斐巨摩郡小笠原村に住して小笠原を称した。長清は源頼朝に仕えて御家人となり,承久の乱ののち,阿波守護に補任され,以後鎌倉幕府滅亡にいたるまで子孫相伝した。貞宗は新田義貞に従って鎌倉を攻め,建武中興政府の武者所となった。のち足利尊氏に属して信濃守護に補任され,以後政基を経て深志,松尾の2流に分れ,松尾家は武田信玄に属し,のち織田信長,徳川家康に従い越前勝山藩主となった。深志家は長時が武田信玄に反抗して上杉謙信を頼り,その孫秀政が家康に仕え,下総古河,信濃松本を領し,寛永9 (1632) 年に豊前小倉藩主となり,明治にいたり伯爵。
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世界大百科事典(旧版)内の小笠原氏の言及
【阿波国】より
…阿波の中世のはじまりである。承久の乱(1221)後,佐々木氏に代わって阿波の守護として入部するのが[小笠原氏]である。小笠原氏は長清以後,阿波国内に一宮氏(名西郡),[三好氏](三好郡)などの一族を配置し,鎌倉時代を通じて阿波最強の一族として繁栄する。…
【応仁・文明の乱】より
…室町時代末期にあたる1467‐77年(応仁1‐文明9)に京都を中心に全国的規模で展開された内乱。この乱では,東軍([細川勝元]方)と西軍([山名持豊](宗全)方)に分かれて,全国各地ではげしい合戦が展開され,中央の状況だけではなく各地の政治的状況が反映していた。
【原因】
[家督争い]
乱の原因は複雑な要素からなっていたが,その中でも表面だった要因の一つに,有力守護家内部における家督争いと,有力守護大名間の対立があげられる。…
【勝山[市]】より
…藩政期には刻みタバコでも知られ,明治後期に専売制になってからは機業に転じたが,廃業補償を資本にしたため規模が比較的大きく,県下機業の一中心である。1574年(天正2)[平泉寺]を焼き滅ぼした一向一揆が自らの拠点村岡山を勝山と改めたのが地名の起りとされ,80年柴田勝家の一族柴田勝安が南の袋田に勝山城を築き,1691年(元禄4)以降小笠原氏の城下町として明治に至った。北谷,野向など過疎山村を抱えて市の人口は減少したが,市街地は流出人口の受け入れと機業場の外部移転で拡大した。…
【唐津藩】より
…4代忠邦は財政改革を推進する一方で,幕閣就任への野心を抱き,1817年(文化14)遠江浜松に転封となり,代わって陸奥棚倉から小笠原長昌が6万石で入封した。小笠原氏は人頭税を課し,人口減少の防止につとめた。5代長国の養子長行(ながみち)は若年寄を経て老中となり,第2次長州征伐に際して,将軍家茂から全権を委任され,明治維新における唐津藩の立場を微妙にした。…
【小倉藩】より
…32年(寛永9)加藤氏の改易により忠利が肥後国熊本に移ったのち,小笠原忠真が播磨国明石より入り,豊前国6郡15万石を支配することになった。[小笠原氏]小倉藩は同時に成立した豊前中津,竜王,豊後杵築の3藩とともに,外様大藩の蟠踞(ばんきよ)する九州にその監視役として送り込まれた譜代藩である。小笠原氏の藩政の基本方針も細川氏のそれを継承しており,64年(寛文4)に四ッ高の法を制定し,78年(延宝6)に地方知行制を廃止して藩制を確立した。…
【信濃国】より
…これらのことから,政康はこの時期までに守護としての信濃領国支配を固めたと考えられている。しかし,一応安定するかにみえた信濃国も,46年(文安3)ころから小笠原氏内部の分裂抗争が起き,信濃国人もこれに巻き込まれていった。小笠原氏の内部抗争は伊那(飯田市)と府中(松本市)の分裂,さらに伊那小笠原氏の鈴岡,松尾の分裂となって現れた。…
【筋】より
…【村上 直】 また豊前の小倉藩では,藩内を企救(きく)・田川・京都(みやこ)・仲津・築城(ついき)・上毛(こうげ)の6郡に分け,各郡に郡奉行(こおりぶぎよう)が配置されていたが,郡奉行は筋奉行とも呼ばれていた。このように小倉藩では郡と筋がいっしょのものとされるが,筋の呼称は藩主小笠原氏の信州統治時代に由来するといわれる。甲斐国では一国を万力(まんりき)・栗原・大石和(おおいさわ)・小石和・中郡・北山・逸見(へみ)・武川(むかわ)・西郡の9筋と,郡内領・河内(かわうち)領の2領に分けていた。…
※「小笠原氏」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」