下林村
しもばやしむら
[現在地名]重信町下林
重信川中流左岸にある村。南部は皿ヶ嶺(一二七〇・五メートル)から北に傾斜する山地で、佐川の中流部に佐古池がある。南は上林、東は見奈良原、北は田窪、西は上の村々に接する。
慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の浮穴郡の項に「下林村 林有、柴山有、小川有」と記され、村高は九八八石三斗、うち田九二六石九斗二升七合、畑六一石三斗七升三合とある。幕末の天保郷帳では一千一七五石八斗八升と著しく増加している。江戸時代を通じて松山藩領であった。
山裾の字別府・仙幸寺から弥生式土器が発見され、字伽藍からは半地下式無段登窯が発見され、古瓦の発掘をみた。
下林村
しもばやしむら
[現在地名]豊田市下林町・元宮町
挙母町の南に位置する。一説に挙母東町の住民が水害を避けて移り住んでできたという(七州城沿革小史)。貞享三年(一六八六)の三州賀茂郡下林村反別指出シ帳(鈴木宗友家蔵)には「天正弐拾年ノ御検地」とあるので、当村における太閤検地の実施を裏付ける。寛文四年(一六六四)まで挙母藩領、貞享三年まで幕府領、寛延二年(一七四九)内藤氏入部時には挙母藩領であった。
下林村
しもばやしむら
[現在地名]野々市町下林一―四丁目
手取川扇状地北東部に位置し、南は中林村など。村内を富樫用水の分流十人川が北流する。中世の下林郷の遺称地とされる(→林郷)。正保郷帳に村名がみえ高八九六石余、田方四二町一反余・畑方一七町六反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の高九九二石、免五ツ一歩、小物成は鳥役五匁(鷹場につき免除)であった(三箇国高物成帳)。同年間の家高数一六・百姓数三〇(高免付給人帳)。天和三年(一六八三)から元禄一五年(一七〇二)春まで、加賀藩は美濃岐阜から取寄せた真桑瓜の種を当村と位川・蓮花寺・三日市・徳用村および田中・専福寺両村(現松任市)に支給、栽培を行わせたが翌年支給が困難になっている(改作所旧記)。
下林村
しもばやしむら
[現在地名]高山市下林町・匠ヶ丘町
川上川右岸にあり、北東は冬頭村、東は下岡本村、同川を挟んで北西は赤保木村。慶長一〇年(一六〇五)飛騨国郷帳では川上郷に村名がみえる。八日町村など四村で高付され一千八七石余、うち田方一千五四石余・畑方三三石余、物成高二一七石余。同一八年の郷帳では下林村として四四一石。元禄検地反歩帳の高は三一一石余、田四二町八反余・畑四町九反余。「飛騨国中案内」によれば免五割六分七厘、家数五七、うち百姓五六・門屋一。
下林村
しもばやしむら
[現在地名]総社市下林
赤浜村の西南に位置し、西は上林村。一帯は「和名抄」の窪屋郡美
郷に比定され、天平一一年(七三九)の備中国大税負死亡人帳(正倉院文書)にみえる「御
郷拝師里」は、上林村を含めた一帯に比定される。「備中誌」に当村と上林村は古くは三須村に属したとあり、のち東三須村となった。
下林村
げばやしむら
[現在地名]大川市下林
下白垣村の北に位置し、西から北は下青木村、東は江上本村(現城島町)。文禄五年(一五九六)四月二一日の立花親成知行宛行状(由布家文書)に村名がみえ、当村の五六九石余などが由布惟次に与えられた。そのうち一〇〇石を文禄の役に惟次の名代として出陣した由布平兵衛尉に分け与えるよう命じ、平兵衛尉は惟次の「寄揆」として「合宿専要」にすることを義務づけられている。本高は七二九石余(元禄国絵図)。
下林村
しもばやしむら
[現在地名]朝日町下山新
黒部川右岸の河岸段丘の末端部にあり、北は小杉新村(現入善町)、東は下山新村、西は新屋村(現入善町)、南は中沢村(現同上)。舟見野一六ヵ村の一つで、寛文三年(一六六三)の仮御印では草高五五石余、免二ツ五歩(三箇国高物成帳)。
下林村
しもばやしむら
[現在地名]八郷町下林
恋瀬川左岸にあり、北は上林村、南は根小屋村。古くは上林村と同村と伝え(新編常陸国誌)、江戸初期に下総関宿藩領となり(寛文朱印留)、のち天領・旗本領となる。元禄郷帳の村高は一千四九〇石余。幕末は天領二七〇石余、旗本板倉氏領三四三石余、松平・沢・長谷川各氏領各二七〇石余、夏目氏領六二石余、観音寺領八石(各村旧高簿)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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