町井村(読み)まちいむら

日本歴史地名大系 「町井村」の解説

町井村
まちいむら

[現在地名]平賀町町居まちい

広船ひろふね川が形成する扇状地上にあり、東は尾崎おさき村、西は本町もとまち村、北東新屋あらや村、南は新館にいだて村に接する。藩政時代から町居とも記した。

正保二年(一六四五)の津軽知行高之帳の平賀郡に高二二〇・七石、うち田方二〇〇・八四石とある。貞享四年(一六八七)検地帳に村高一一九七・二七九石、うち田方一〇九町三反四畝一四歩、一〇五五・二四二石、畑方三六町三反一畝二歩、一四二・〇三七石、ほかに田畑地一町四反三畝歩、池床八ヵ所で七反七畝二三歩、漆木七五本、草山四ヵ所、永荒田畑三町二反一畝、高宮太夫抱えの熊野堂一畝一〇歩、村抱えの地蔵堂蔵王堂が記される。元禄三年(一六九〇)には尾崎組に属し、村位は上(平山日記)。同一一年藩では尾崎村などに矢竹を仕立てさせ(津軽信政公事績)、一時中絶したらしく、享和元年(一八〇一)と弘化二年(一八四五)町井村などに再び矢竹を植えさせている(津軽興業誌)


町井村
まちいむら

[現在地名]東和町町井

十二じゆうにヶ村の南、安俵あひよう村の東に位置し、さるいし川中流左岸平地と河岸段丘に立地。町居村とも書かれる。慶長一七年(一六一二)から天明元年(一七八一)まで土沢つちざわ城主江刺氏の給地が村内に一六七石余あった(「大図日記」多田文書)正保国絵図に町居村七一石余とある。天和二年(一六八二)の惣御代官所中高村付では蔵入高一石余、七ヵ年平均の免は五分七厘。元禄十郡郷帳による〆高は田方一六四石余・畑方五七石余。元文三年(一七三八)の給人書上に江刺氏のほか葛西市右衛門らがみえる。「邦内郷村志」によれば蔵分一七一石余・給分三二石余、家数三〇。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android